排斥する人々

親から言われていた気持ち悪い言葉の中に、「太っている」とか「姿勢が悪い」など
容姿に関わる発言があった。
そりゃ、バレリーナーじゃないんだから、多少肉付きがよかったり、猫背だったり
しただろう。
ただし、非難されるほどに醜くない。

それでも、尚、親が侮蔑の言葉を吐くには、ちゃんとした理由があったから。

それは”自分が不快に思う物は、排斥してヨシ」という考え。
単純に言えば、”嫌な物はイヤ、あっちいって”である。

太っていると感じるなら、「痩せたいなら相談に乗るよ」などの問題を解決する提案
をすればよい。しかし、精神的に幼い親は、ただ「いやだー」以外口に出せなかった。
そうやって、嫌な物を遠ざけて、差別対象にする様は、なんと見苦しいことか。

子は親が育てたように育つ。
従って、私の中に自分が「イヤだ」と思う物は排斥する姿勢が宿る。
現代で言うと、「キモイ」という簡単な単語で、嫌な物を遠ざける姿勢。
それによって、いったい何が生まれるのだろうか?
キモイと言われた側の傷ついた心?排斥した側の安心感?

だれしもが、全てを受け入れられるほどに広い心を持つわけじゃない。
だからといって、受け入れられないこと==排斥なのか?
自分がすっきりしたいというエゴ(先に述べた安心感)は、他者を傷つけることより
優先されるのであろうか。
傷つかない程度に、相手をフォローしてこそ、人間の懐の深さではないのか。

他者の気持ちを鑑みない人ほど、横暴な言葉遣いをし、我先にと我を唱える。
それを全ての人がやったとしたら、人は人を救えない。
苦しいとき助けてくれるのは、やはり人の心なのです。
だからこそ、受け入れがたい存在を即座に排斥するのではなく、どこかに救える
ところがあるのではないかとやさしい眼差しを向けることくらい、してもいいんじゃ
ないでしょうか。