親といると嫌気が差す三大理由

年末が近づくと、「今年も実家に帰らないといけないのか、憂鬱だな」と思われる方もいるでしょう。

なんとなく心安まるところがない、イイ子を演じなくてはいけない、正直に答えなければいけない、逆らってはいけない。小動物が蛇ににらまれたような緊張感の中ですごす年末年始。

家族団らん?みんなで楽しくお正月?
そんなもん、どこにあるねん💢 と思うのなら、ちょっとここらで頭を整理してみませんか?

嫌気の理由その1ー安全性のない会話

実家に帰ると、矢継ぎ早に質問されることはありませんか?

既婚者なら、配偶者とは上手くいっているか?独身なら、いい人はいないのか?
新婚なら、子供はつくらないのか?子供がいるなら、順調に育っているのか?進路はどうするんだ?
仕事をしているなら、仕事はどうか?

これらはすべて親の知りたいことで、聞かれる側に無遠慮です。自分の子なんだから聞きたいことを聞いて何が悪い?と思っているかもしれません。

親にとって子供は支配の対象。支配の入り口は調査という名の詮索。だから「心配」を口実になんでもかんでも聞きまくる。そして一通り情報を得ると、今度は批評大会。「そりゃ、よかったね」「いまいちだね」という善し悪しを下した後、おきまりの、「アンタが悪い」だの「ちゃんとしてないから」だのといった根拠の乏しい攻撃に転じます。

それは満足のいかなかった親自身の人生の責任転嫁。自分の人生がイマイチだから、子供に過剰な期待を掛けて、その期待が叶わなかったら、こんどは子供が至らないから、と不満の的とするのです。

近寄るたびこんな詮索と攻撃を繰り返されれば、「ここにいれば安全」なんて、到底思えません。

嫌気の理由その2ー安心感に欠ける会話

たとえば、自分としてはちょっと頑張ったなということ、上手くいったなことがあったとして、それを意気揚々と親に報告すると、「ふーん」とか「(棒読みで)スゴいね」と流されたり、「お母さんの方がこんなに出来るのよ」といったマウンティングにすり替えられたことはありませんか?

子供は何歳になっても親に認めて欲しい。けれども、子供の認めて欲しい気持ちに目もくれない。そればかりか親自身が見てくれとせがんでくる。欲しくて、欲しくて、欲しくて、喉から手が出るほど親からの承認が欲しいのに、そんなのどこにもない。あるのは、一瞬膨らんだ期待と、その何倍もの威力で握りつぶされる絶望。

そのジェットコースターぶりに、「ここなら安心して話ができるかもしれない」と思ったことをひどく後悔することでしょう。

嫌気の理由その3ー自分の事を棚に上げた尊大な会話

ちょっとでも子供に気に入らないことがあると、振る舞い、容姿を酷評する親。やれ、姿勢が悪いだの、歯が真っ白ではないだの(虫歯とかではない)、スカートが短すぎるだの、それはそれはいいたい放題。でも自分はと言えば、ずっと姿勢は悪いし、ファッションのセンスはいまいちだし、出っ歯だし、階段降りるときスカートを抑えなかったからパンツ丸見えだったし、ぷーんと臭うし。

他者のことをあれこれいえるほどしっかりしていたとは思えません。自分の身の丈をわきまえれば、自分の遺伝子が半分入った子供なんてたかがしれています。にもかかわらず、モデルのようにきれいであれ、だれもが絶賛する容姿であれ、って無理なんですけど。

文句だけ言われるならまだしも、自分だって出来てないことを要求されるというのは、思った以上に腹立たしいです。その身勝手で、ふんぞりかえった尊大さに、反吐がでるほど呆れてしまいます。

自分の心に素直に生きる

こんな風に絶対に近寄りたくない要素をぎゅっと詰め込んだような話がなされる、和やかなはず?の実家に帰るのが当然とされる風潮に、思わず身の毛がよだちます。傷つけられ、血肉をはぎ取られに自らいけと?

いや、そんなことはありません。嫌なものは嫌と感じていいんです。むしろ嫌なものを良いに無理矢理ひっくり返す方が不誠実で、血のつながりという一点だけでは、白を黒に変える力にはなりえないし、してはいけない。親が白と言えば白になった封建時代は、とうの昔に終わりを告げたのですから。

気持ちをそのまま親にぶつけるのは賢いやり方とは思いませんが、少なくとも、嫌なものは嫌と感じる気持ちそのものを自ら否定すべきではないと思います。
自分の心に素直にあってください。