正月や盆になぜ人は集まるのか

日本では正月や盆に実家に帰って、親戚一同で集まる。
これ自体、小さい頃から何度もやっていたので、そーいうものかぁと受け入れていた。
しかし、なんでまたこうやって人は集まろうとするのか。改めて考えてみると不思議だ。

それも移動するのに体力・金銭を消費する。
それを上回るほどのなにかがそこにある?

人が人に会おうとするとき、本当は自分を確かめたいんじゃないだろうか?

->自分と血の繋がった相手を見て、自分らしさ(遺伝的要因)を感じる
->自分の話を聴いてもらうことで受け入れられる体験をする
->自分を褒めてもらうことで自分の正しさを認識する

集まった人々は、表だった批判をしない。
大概子供に対しては「大きくなったね~」「偉いね~」。
大人に対しては「立派なお仕事だね~」「よくやっているよ」
といった台詞が並ぶ。

なるだけ波風立てないように、いいことだけに集中して話をする。
それが一見すると仲がいいに見えて、年配者は自分が作ってきた子孫に満足する。

この場合、一般的尺度から見て優秀だと思われるポジションにいる人にとって、
自分が褒められる最大のチャンスだから心地よい場所だろう。
一方で、劣っているというポジションの人にとっては、なにかと見えない批判や
周囲の微妙な面持ちに絶えきれない場所だろう。

本当はだれもが心地よくいられることが望ましいが、なんといっても皆さん
血が繋がっていて、つまり遠からず自分にも相手の要素が混じっていて、
だからその場にいる全ての人が優秀でないと、自分が困惑するので、劣等生は
静かに虐げられる。

きっと間違えること、留まることが人生のすばらしい体験だと考えている一族なら
だれもが笑って、楽しく時を過ごせるだろう。
実際、そんな一族はごくわずかなことが、帰ってきたらどっと疲れると多くの人が
語っている事実で裏付けられる。

人は自分が優秀だと信じたい。そして劣っていることから目をそらしたい。
でも、それって本当に強いんだろうか?
自分を確かめられるその場において、劣っている人の傷ついた心に寄り添って
こそ、血以上のつながりが感じられるのではないだろうか。

正月に感じる一族の問題。
それが新年の課題になるのだ。
臭いものに蓋をするではなく、臭い物を突き止め処分する勇気を持った方が
未来はずっといい方向に向かうだろう。