常識に縛られるな!

人は殺してはいけません。
そう習ったから、私は強盗殺人犯がこっちへナイフを向けても、自分は猟銃を
構えられなかった。引き金を引けなかった。
一見正しい善良な人です。でも強盗犯にナイフで刺されて死んだら、そんな善良な
思想、意味ありません。

同じ事が多くの人の日常生活で起きている。

親がめちゃくちゃ依存して、自分の生活を脅かしているのに、
「親を大切に扱わなくてはいけない」思想に囚われて、いつまでも搾取されつづける。
友達が自分を利用しているのが明確なのに
「友達を粗末にしてはいけない」思想に囚われて、利用されていることに反旗を
ひるがえせない。

挙げ句、自分が勇気を出してNOと言ったのに、「私は心が狭い」とか「自己中では
ないか」と思い悩む。
→で、発言小町に相談して、大勢の人に「貴方は間違えていないよ」と言われて
少し気持ちが軽くなる。

どうして、そんなに自分の心が嫌がっていることに自信を持ってNOと言えない
のでしょう?


我々は生まれた直後から、”躾”なるものを通して、基礎思想が作られます。
いわゆる常識です。
その基礎思想は、社会で円滑人間関係を形成するためにあるのだから、当然
その人がどう思っているかは取り扱いません。
自分の心を見る機会は、親によって本来与えられるが、常識を信仰する世間基準の
親は、その機会を与えません。
いや、与える必要性すら感じてない。
教育とは、基礎思想を作ることであって、自分の気持ちに気がついて、正直に
表現できることではないと思っているのだから。
ちょっと表現しようと子が試みれば、「ワガママだねぇ~」と批判し、心を感じる
ことを封じ込めます。

そりゃ~、大人になってから自分の心に気がつきましょうと言われても、存在が心の
奥底に封じ込められていますから、そう簡単に気付くことはできません。
ですから、正直な所、自分の心が分からない人にこそ、育て直しプログラム
を受けて欲しいのです。(まぁ、実際はそんなプログラムないんだけど)

今、知って欲しいのは、心という存在がちゃんと居て、その心さんを気付いて・見て
・従って欲しい ということなのです。
自分の心を無視するほど、心はへそを曲げてしまいます。
そうすれば、心と繋がる身体に変調が起き、身体表現性障害やうつ病を発症
します。

どうぞ、自分の心さんの存在を見つけてください。
変な宗教とかではなく、今いる自分だけが感じる心の快・不快を信じて、判断して
ください。
心があると信じて、自分の心の声を感じ取ってみてくださいね。