「尽くす女」が分かっていないオトコに捨てられる本当の理由

「尽くす女」と聞いてどんな女性をイメージしますか?

奥ゆかしく控えめでオトコを立てるのが上手なオンナ、ではないでしょうか。いわゆるオンナの鑑ってヤツです。でも、お手本なわりに、「尽くす女は捨てられる」という話も耳にします。

なにがどう違って、尽くしたのに捨てられてしまうのでしょう。そこには、「尽くす女」ゆえに見落としているある事がおおきく関わっているのです。

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「尽くす」が生む歪み

尽くすとは、自己を犠牲にして、相手の利益を優先することです。相手を思いやる究極の行為とも言えましょう。なかなかの行為ゆえ、我々のなかで美化されています。売れない夫を陰で支える糟糠の妻、オトコの欲を十二分に満たすプロ彼女、といった表現がなされるように、女性との相性の良い言葉です。

その昔、女性の地位が低かったころは、外で稼いでくる男性に「尽くす」ことによって、女性は堅強な生活基盤を手に入れてきました。しかし一方で、尽くすだけで報われないことに歪みが生じていたのも事実。「尽くす」を讃えてくれる異性との不倫、報われない虚しさをぶつける嫁いびり。尽くすことによって抱えるストレスを、そういった形で発散し、心のバランスを保っていました。

しかしながら、どうやってもストレスを伴う行いゆえに、相手に無言のプレッシャーを与えてしまいます。だからオトコはある程度尽くされると、「責任とってよね」といううらめしさを重く感じて、逃げていきます。
これは、息子や孫に「さんざん尽くしてやった」婆さんにも当てはまること。晩年、誰も家に寄りつかないと嘆く高齢者の例には、事欠きません。

「尽くす」から逃げられる

このような事態が起こってしまう理由は、「依存心」にあります。見返りを求めて人が何かを受け取るとき、そこにはそこはかとない気持ち悪さがつきまといます。その粘っこさに、皆、言いしれぬ恐怖を覚えます。

さっぱりとした人付き合いが望まれる中において、べっとりとまとわりつくそれは、嫌悪の対象でしかありません。つまり、望みと反対のあり様だからこそ、人は距離を置きたがるのです。

ならば尽くさずに、どうあればいいのでしょうか。

見落としてるある事とは?

見返りを求めなければよいのです。

相手の利益のためにやってあげるんじゃなく、自分がやりたいからやる。すべて自分の中で完結する。自らの行為によって相手が得しようが、そんなの関係ない。したいからしたんだ、と割り切ることです。

この「他者を絡ませず、自分の意思だけで決める」ことは、実に潔く他人の目に映ります。粘っこさも重苦しさもプレッシャーも嫌悪もなんにもなく、軽やかにただそこにある。これこそがさっぱりとした人付き合いであり、望まれる形なのです。

あやふやな自分を、他人に尽くして感謝されることでどうしかしようとする狡猾な自己肯定方法は、即刻手放すべきです。自分を確かなものにするのは、自らの手で行いましょう。

他者に絡み、他者から吸い上げ、他者によって活かされようなどという魂胆はさっさと捨てて、自分を生きるのです。