ブログで何回か取り上げている虻川さんの例を使ってカウンセリングとはなんなのかを考えていく。
虻川さんは父親からスポーツで結果を出すことを望まれていた。
思春期の「かわいくなりたい」の気持ちを封じ込めて、みんなが髪型などに気を取られている時期に、「如何に早くボールを投げるか」に集中した。
お陰でかなりいいところまで成績を上げることが出来、それなりに満足したものの異性を前にして女性らしさをだすことを、「しゃらくせぇ」と思ってしまい、素直になれずにいた。
これは心理的に図のような構造になっている。
一番表に出ているのが、「しゃらくせぇ」という言葉に代表されるように”自分は女らしくいてはいけないんだ”と思い込んでいる自己像。
その下にまわりが期待・評価する私。
要するに父親が期待した虻川さん。
そして一番内側に、本当はこうしたかったという隠れた心。
自分が思い込んだ像というのは、ある状況では最適な結果を生むのだが、状況がその他に移っても応用がきかない。
故に他人との衝突が起こりやすい。
虻川さんの場合は、配偶者さんとの衝突だ。
しかし本人に自覚できるのはあくまでも最表面の自分だけ。
なので、いつまで経っても自分で解決できない。
そこでカウンセリングの必要性が出てくるのだ。
カウンセラーはクライアントの言葉の端々に現れるヒントを拾って、内側の2層目、1層目の正体を見抜く。
真の1層目を見抜いたときには、クライアントの目から涙が溢れる。
それは、<ずっと心の底にしまっていた思い>を誰かが迎えに来てくれた安堵から訪れる涙。
先週の「解決!ナイナイアンサー」のあの場面は、まさにカウンセリングの真骨頂を見せてくれたように思う。
人を苦しめているのは、構造がわからないまま最表面の自分に縛られているから。
本当の自分の姿を知ったとき、人生が大きく変わる。
3層あるのは、処世術を身につける上でも当然なのだけど、ちゃんと全部の層を知った上で、使い分ける賢さを身につけることが心を守ることでもある。
おぉー、なんとなくカウンセリングがなにか分かってきたぞ!
関連記事
カウンセリングとはなんなのか
意外と言われた言葉に影響を受ける