最も使いたくないのは「気遣い」?

男性が女性とつきあうことに興味を無くした背景には、「女性の気持ちを考えるのが億劫だから」「交際のステップを踏むのが面倒くさい」「イベントやプレゼントを考えたくない」などの「気遣い」の放棄とも取れる理由がある。

確かに男性は脳の構造上、相手の心を読み取る能力が女性に比べて低い。

しかしそれは訓練をすることでいくらでも鍛えられる。
ところが今の結婚適齢期の人は、親にやや過保護気味に育ててもらったために、自分の気持ちを口に出す必要性を感じず、人(親)の気持ちを汲み取る練習を経ていない。
つまり身体は大きい、知識もある、社会と接触もある・・・けど気持ちに関しては幼稚園レベルなのだ。

昨今離婚の原因にもなっている配偶者が家に帰ってくると即ゲーム、オタク趣味に没頭というのは、先に挙げた幼稚園レベル君が増えた証でもあろう。
家族というのは毎日会話を重ねながら育んでいくものという意識に欠けている。

まだコンビニや家電が発達していなかった頃は、色んな人に力を借りないと生活が営めない側面があり、貸し借りの中で人に気を遣うことや、貸し借りを通して相手がいて良かったという思いを持つことが出来たのだと思う。
翻って現代はなんでも一人で出来るようになったし、恋愛さえもシミュレーションで体験できるようになった。
もはや生活の中に他人を求める必要がないのだ。

ところがどうしても人が必要になる場面が人生にはある。
病気になったとき、気持ちが沈んだときなど。
そんなときだけ都合良く人を調達できるはずもなく、昨今そのことに警鐘を鳴らすワード(無縁社会)が画面を踊り、不安に駆られた人々が、お手軽に人を調達しようとする様が見える。
実際、都合良く助けてくれる人に出会えず、今までサボってきた気遣いを再勉強せざるを得なくなるのが現状。

今男女が互いに相手に求めることは、「思いやりがあること」らしい。
「思いやり」とは何かといえば、一方的に良かれと思うことを押しつけるのではなく、本当に相手の必要としていることを差し出すことである。
これは思ったよりもずっとずっとハードルの高いことだ。
思いやりの一歩手前の気遣いですら、結構な数の人が面倒だと一蹴しているくらいなのだから。

自分は何のために生きているのかといえば、そりゃ自分を幸せにするためなんだけど、自分の幸せは、相手を幸せにすることによって得られることが多い。
ならば気遣いや思いやりをじゃんじゃんして、自分を幸せにすればいいものを、自分への気遣いを求めるあたり、非常に近視的だと感じる。

女性はよく分からない存在なので面倒くさいと思っているなら、人を頼らない無敵な人間にでもなることだ。(←要するに仏門に入るってことね)
それ以外は、まぁ人間の覚悟なんてしょっちゅう崩れるのだから一日でも早く他人の心を知ろうと学び始めること。
だって13歳くらいから恋愛はスタートして、30歳くらいで成就しているのだから、足かけ17年はかかるってことよ。
今の年齢に17足したら、一体何歳なのよ?!