厳しさと覚悟のない人生は不毛だ

私はずっとぬるま湯の中で生きてきた。
みんなが大学に行くからという理由で進学し、大手企業がよいからという理由で就職し、友人がいないと寂しいという理由から友人に連絡を取り、女性は結婚した方が幸せという理由で結婚してきた。

何一つ自分でつかみ取っている実感のないまま、流されて流されて今にたどり着いている。
世間ではこれを標準の人生とでも呼ぶのだろうか。

でも、このまま覚悟もないまま進んでいく人生は、ともすれば他人や世間に責任を押しつけ、いいとこ取りをしようとするセコイ人生になるのではないかと思い始めた。


いいとこ取りをしようする人は顔が醜い。
人の芝生ばかり青いと羨み、自分の芝生を手入れしない。
人生を成功している人をみて、「いいな~」と指をくわえるけど、成功者の蔭の努力に思いを巡らせない。
あげく「みんながやっている」の号令の元、犯罪や倫理に反することを平気でやる。
んで、最後「なんで、私だけ?私は不幸だーーー。」と泣き落とし。

かっこ悪いったらありゃしない。

そんなセコビッチな人生を歩もうとしていた自分。

例えば大方の人は経験があると思うことで、「友達がいないと寂しい」という感覚。
「親友が欲しい」「遊び友達が欲しい」「メール相手がほしい」「共感してくれる人が欲しい」
弱々の自分を、なんとかその場に踏み立たせようとするための友達を求める声のなんと多いことか。
そして外枠を埋める友達がいないと自分が保てないから、友達に気を使って、言いたいこと言えずに不満を溜めて、せっかくの友達の悪口を別の人に言ってしまう悪循環。

その元凶は「自分一人で生きるんだ」という覚悟がないから。
人は一人で生きられませんという前に、一人の人間として自立しないといけないのです。
自立した人間同士だからこそ、支え合うことができる。
そんなことも知らないで、「私を助けてー」と相手に求めてばかりいるから、互いの距離感の均衡が崩れて、恐れとストレス世界へ落ちていく。

私はずっと、自立するの意味が分からなかった。
それ故に人恋しくて好きでもない人にすり寄ったり、ご機嫌取りをしていた。
孤独に耐えられなかったから。
自立の意味が分かった今思うことは、孤独に耐えるとかそんなんじゃなくて、諦めと自覚で孤独を受け入れたって感じかな。

水道橋博士の著書「藝人春秋」の中の松本人志さんのエピソードで、松本さんの藝への厳しさの一端を見ることが出来た。
自分にハードルを課し、それを突破していけるのは他ならぬ自分でしかないという松本さんの考えそのものが「個」「孤」としての自分を表している。
これを読んだとき初めて「孤独」の本当の意味を知った。

人によって孤独の取り方はそれぞれだと思う。
私にとっての孤独は、先のエピソードのように誰にも救えない自分でしかできない領域があると自らが認識するという意味だった。
これを知って以降、友人を求める気持ちがものすごい勢いで減少していくのを感じている。
友人と関われるのは、人生のほんのほんの一部であり、ほぼ全ては自分の肩にかかっているのだから、「人生の責任を取ってくれ」の如くべったりと誰かに頼ることなんてあり得ないのだと気がついた。

孤独でいるということは、自らで問題を解決しなくてはならないということであり、厳しい場に置かれることになるだろう。
しかし、厳しさをドンと受け入れ、覚悟を以て臨むことでしか自分の人生を救うことはできない。

「みんなが~」に流されて、あれも欲しいこれも欲しいと戯れ言ばかりほざいている人は死ぬ直前に「満足な人生だった」と言えないと思う。
死ぬ直前まで、「あれが欲しかった」と言い続けるのだ。
あの世に逝っても、不幸そうである。