私のケアは誰がしてくれるの?という発達障害児親の叫びをどうするか

子育ては誰にとっても大きな負担。もちろん、喜びはあるのですが、発達障害児に関しては焦りや不安の方が大きい。

なかなか目を見てくれない、意思が通じない、同じ事ばかり繰り返して心配、言葉が出ない。考えれば考えるほど、不安で押しつぶされそうになる。だから助けを求めてママ友や子育て経験者(主に親)に相談を持ちかける。けれども、まともに取り合ってくれない。それどころか、「そんなにキーキー言ってたら、子供がかわいそう。ほら、親なんだからしっかりと子供をケアしてあげなきゃ!」などと言われる。

その瞬間、”この人なら助けてくれるんじゃないか”という期待はしぼみ、暗闇に子供と二人置き去りにされた感じがする。

そんなに親なんだから!って言わないで。私だって子供をケアしたげたいよ。でも…限度がある。ねぇ、私のケアは誰がしてくれるの?

集まる親たちが手にするもの

頑張っても頑張っても、「ガンバレ」と発破を掛けられる世界はとてつもなく苦しい。好きでこんな状況なんじゃない、努力不足でこうなんじゃない。私だって【普通】に子育てしたいよ。でも全然そうならないんだもん。お手本とかけ離れてるんだもん。

ほほを伝う涙。抜けていく力。どうしようようもない徒労感。

そんな母親の一筋の光が、同じ境遇の人とわかり合うこと。
家を出るのが難しければ、ネットの掲示板を通じてやりとりをする。まるで自分がしゃべってるかのような誰かの体験。「そう、そう」気づくと深く頷いている。最近どこかへ忘れてきた「共感」。

やっと訪れた「分かってくれる」の感覚に心が軽くなる。

それは本当に分かってくれてるのか?

確かに自分と見まごう体験は、深い安堵をもたらす。”とにかく分かって欲しかった” そういう人にとっては最適な場所なんだろう。

しかしだ、それは本当の意味で分かってくれてるのか?
単に同じ境遇だから同じ思いを抱いているのであって、全然違う境遇の人が一生懸命頭を働かせて分かってくれてるのとは、ワケが違う。

ためしにじっくりと掲示板に目を通すと、誰かが自分と境遇が重なってるところに、「うん、うん、そうだね。」と返してることに気づく。そして9割以上が、その後に自分の話を続ける。

ということはそこは「わかり合う」場ではなく、吐き出す場。

私を「分かってくれる」ところではないのだ。

どこまでいっても孤独であることの覚悟

かといって違う境遇の人が想像して分かってくれるか、というと、可能性としてなくはないが、少数派だ。

さらにはそのような人が現れたとしても、あなたの「また話を聞いて欲しい」「慰めて欲しい」という気持ちが加速して、しつこくしてしまい、避けられる可能性が高い。
あなたが悪いわけじゃないんだけど、どの人にも生活があり、時間配分がある。そして話を聞ける許容範囲も。それを勘案できる冷静さを四面楚歌の発達障害児親に求めるのは酷というものだろう。

従って、同じ境遇の人は【共感のレスキュー】として、違う境遇で理解してくれた人は【偶然なる幸運】くらい、に捉えるべきだろう。

では立ち戻って、一体誰が助けてくれるのか?

答えは「助けてくれない」。ぐるぐる回って結局元に戻ってくる。
ただし元の追い詰められた心情よりもっと諦めに近い心情になっている。

小児医療の現場に立ち続ける松永正訓医師はこういう。

受容は「あきらめ」から始まることが多いようです。それはやがて「克服」に変化します。そして両親は「新しい価値観を構築」して、最後に我が子を「承認」することが多いように見えます。

ここでいう「新しい価値感」が、最終的に親の救いとなるように思う。

そして私は「新しい価値感」の一つを、これは「自分の問題だ」と真正面から受け止めることのように思うのだ。「この問題に関して自分は孤独である」ということを覚悟することで「克服」への一歩が踏み出せる、と言いたい。

孤独が生む力

孤独を覚悟すると、本当に孤独に陥ってしまうんじゃないか、と不安になる。

だが不思議なことに孤独を覚悟すると、冷静になれる。誰に支援を要請すればいいかを探せるようになる。誰も助けてくれないとパニックになってた心が止んで、「こうしよう」という解決思考に切り替わる。

そうなると、周りは協力的になる。発達障害児の親の頑張りを見て、手伝いたいと思ってくれる人がチラホラ出てくる。あんなにナイと嘆いていた助けが、助けられることを諦めた瞬間、手に入り始める。

え?!いったい何が違うんだろう。

それは「依存心」。以前は、できない自分に代わって誰かになんとかいい方法を見つけてもらいたい、苦しい自分を助け出して欲しい、気持ちに共感して欲しい、と人になんとかしてもらうことにこだわっていたのが、もういいや自分でやるしと開き直った瞬間、こだわらなくなる。そのこだわりの消失をもって、他者との間にあった溝が除々に埋まり始める。

それくらい「依存心」というものは、人を遠ざけ、隔絶する厄介なヤロウなのだ。

人に助けて欲しいと思うことは悪いことじゃない、けど…

苦しいときに助けてもらいたい、と思うのは、みんな同じ。ただその思いのまま生きようとすると、苦しい。マジで暗闇に子供と二人置き去りにされる。

だからこの文章を読んだのを機に考えてみてはどうだろう。「分かってほしい」から「分からなくていい」に変えることはできないか、内なる自分に聞いてみるのも手だ。

私は発達障害児を持つ親ではない。それでもこれくらいは理解ができる。だからあなたの周りにも、力になろうとしてくれる人はいる。