よく掲示板などで「相手が不幸になれとか思っちゃうんですけど、そんな自分に嫌気がします」といった書き込みを見かけます。
本人は、そんな風に思ってしまう自分がキライなんでしょうね。でも、いいんじゃないですか!!人の不幸を願っても、悪口言っちゃっても。感情を押し潰すって、身体によくないですよ。
じゃんじゃん、ガンガン、そやつらを出していきましょ。
正しくあろうとしない
ちっちゃいときから、人の幸せは願っても不幸は願うもんじゃありませんよ、と我々は教え込まれています。だから表立って、「アイツ不幸になれ~」とは言えないし、言ってるヤツを見かけたら眉をひそめてしまう。
まぁね、マイナスな話ばかり聞くと気持ちが凹んじゃうから聞きたくないよね。ということは言うのもNGだよね。ってなるのは納得です。
一方、本心は「ふふ、人の不幸、ウッシッシ♥」と思っているわけで、そのバランスをどうするかは検討の余地がありますが、無理に教えを守ろうとはせんでいいですよ。
人間、正しくあろうとすればするほど、アンチな心が湧いてくるものです。たとえていうなら、「食べちゃダメですよ」と言われたクッキーほど食べたくなる、みたいなもん。禁止はよくありません。
不幸を願うあなたの本音は?
なんで相手の不幸がそう嬉しいのでしょう。そこに本音が隠れています。
あなたは、自分の幸福を他人との比較で感じているのではありませんか。他人が不幸になれば、それだけ自分の幸福度が上がる。だから他人の不幸が間接的に自分への貢献になると見越して、人の不幸を願っている。
そんなあなたの根幹に流れる価値感は「みんな一緒がちょうどいい」です。誰かが飛び抜けてよくても、誰かが飛び抜けて悪くても、よくない。みんながそこそこ幸せで、比較したところで大した差異が見当たらない、イコール 最高!というわけです。
けっして自分だけが飛び抜けて幸せになりたいのではなくて、自分だけがみんなより不幸せであることが許容できないだけです。だから自分だけが不幸せになることをなるべく避けようとして、人の不幸を願ってしまう。
心理的な安全確保ですね。
安全な人生などない
しかし、あなたの望むみんな一緒は、資本主義国家とは逆行するものです。米国ほどではありませんが、日本も何かにチャレンジし続けた人が、何かを得る社会です。
基本的に、考えることを通じて前進することを前提としています。つまり足の引っ張り合いではなく、しなやかなマインドを持って突き進むことで社会をよくしていきましょうね、という考えです。
応援される対象はしなやかなマインドの持ち主なのです。
では、安全確保を第一とするマインドはしなやかといえるでしょうか。反対のカチコチではないでしょうか。
カチコチのマインドを持つ人は、安全確保のためにこうすべき!という約束事が多いです。自由奔放に見えて、当人はとても不自由に感じている。そりゃそうです。自分の正しいを実行しようとするほどに、自分を縛る掟が目の前に立ちはだかるのですから。
つまり、みんな一緒は最初からムリゲー(クリアできないゲーム)なのです。
転換を図ろう
さっさとそのムリゲーの電源ボタンを切って、クリア出来そうなゲームへと乗り換えることです。
ではあなたがクリア出来そうなゲームって何でしょう?あなた自身に関わるゲームですよね。
そうです。あなた自身に関わる…、ということは、あなたの心に関与する、あっ!不幸を願ってしまう自分への理解を進めるゲームとかどうでしょう?
あなたはどうしても人の不幸を願ってしまうわけです。ということは不幸を願わざるを得ない動機が存在する。その動機は、願望というより恐怖からくるのではありませんか。
人の幸福によって、自分の幸福を脅かされてしまう恐怖。そこから逃れたくて、人の不幸を願ってしまう。
ではなぜ自分とは切り離された他者の幸福の影響をモロに受けてしまうのでしょう。それは、自分で自分の幸せを決めていないからです。
あなたは世間が評価するところの、地位、容姿、経済力、人脈、といったものを幸せの基準としてしまっている。自分の外に主軸を置いてしまっているのです。
幸せの本質
今まで生きてきて、何が本当に自分の幸せか、考えたことあったでしょうか。お仕着せの幸せは数あれど、案外自分の幸せというのは、真面目に考えたことがないものです。
そして多くの人が「愛されること」や「思われること」そして「受け入れられること」を幸せと考えています。
でもハッキリといいます。それは違います。「~られる」ことは幸せの本質ではありません。なぜなら他者からされることは、自分ではいかんともしがたいからです。自分で出来ないことを幸せの指標にしてはいけません。それは永遠にたどり着かない桃源郷を求めるのと同じです。
自分の力だけで自分を幸せにできることって何だろう?
それは遠い昔に手放した自分を、もう一度自分の中に取り込むことです。あなたがあなたになることです。
今は分からなくてもいいです。ただぼんやりと、自分が自分になることをイメージしてみてください。私の中にすべての基準が降りてきて、私という核を形成する。見えてるのは、私、その人だけ。
どうですか?他人の不幸とかどうでもよくなりませんか。悪口言ってるヒマがあったら、私の基準ってなんだっけ?と考えたくなりませんか。
結局、私が私でないから、周りのことをとやかく思ってしまうのです。それは大自然の前に立ったとき、地球の上にぽつんといる自分がふと感じられて、ごちゃごちゃしたことがどうでもよく思えてくる、という感覚に似ています。
もう一度いいます。大切なのは私がどうなのか、ということ。
これ以上「人の不幸を願う私はイケナイ子」と責めるのはよしましょう。あなたが意識すべきは、他者の中にいる自分ではなく、あなたそのものです。