おしゃべりが生むもの

近所にずぅ~っとしゃべり続ける人がいる。
直接の知り合いではないのだが、犬友さんのお友達。
私と犬友さんが一緒に散歩していると、おしゃべりさんに捕まって、なかなかその場を離れられない。

おしゃべりさんは、何を話しているかというと、ほぼ自分と自分の家族のこと。

それは犬友さんにも私にも、あまり関係のないことだ。
けれど、我々がおしゃべりさんの話に興味を持っていると思いこんでいる。

考えてみれば、人は自分のことはたくさん話せるが、相手の心の内はほとんど話すことが出来ない。
試しに、「目の前の人の話をその人に成り代わって話してください」と言うと、意外と話せないのである。
なぜならしゃべっている間は自分の心に意識が向いているので、相手のことはほとんど知らないから。

人は相手があたかも自分のように話をしてくれたとき、”この人だけは分かってくれる”と信頼を寄せる。
どんなに言葉が多くても、それは信頼の証とならない。
言葉の軽重は、自分の心の琴線との重なりによって決まるのだ。

賢い人は言葉の数ではなく、言葉の質に拘る。
自己に意識を向けるより、相手の心に意識を向ける。
いつの時代も相手の心を読める人が、なによりの勝者だ。

我々はもっと黙って相手を分析する時間を割いた方がよいのかもしれない。
私を分かってくれる人を探すより、相手を分かる人になった方が、人との繋がりが深まるのだ。

SNSや電子メールで交わされる言葉の一つ一つに、どれだけ相手を想像した結果が織り交ぜられているだろう?
ほぼ、一方的なスピーカー、一方的な感想にすぎない言葉しか交わされていないように思う。

それではいつまでたっても、心の支えとなる友とは出会えぬ。