カウンセリングにおける言葉の物足りなさを払拭したい

私が御世話になったカウンセラーは男女比5:1で男性が多かった。
そのせいだろうか、あまりピンとくる言葉を掛けてもらった気がしない。

当時は「まぁ、私も大勢いる患者の一人だからね~」くらいに思っていたけれど、立場を変えて自分が診る側になると、案外そうでもない。はたして先生方は、本当に”私”をみてくれてたのだろうか?

1年半通ってたったこれだけ?

今から10年以上前、原因不明の身体症状に悩まされ、最終的に「心の病気」とされて通い始めたクリニック。そこのカウンセラーは私よりやや年上の男性だった。
黙って話をよく聞いてくれたので、気に入って二週間に一度、通っていた。

遠方に引っ越すまでの一年半に通った回数は50回以上。私の人となりは知ってもらえてたと思う。
しかし、カウンセラーから掛けられた言葉は「よく頭の中が整理されていますよ。他の人より進んでいます」というものだった。

当時の私は生真面目に記録を取り、課題をこなしていたので、順調に回復に近づいていたのだと思う。それを受けての上の言葉。
でも言葉をもらった瞬間、「まぁね」という気持ちと釈然としない気持ち、の両方が押し寄せた。

"カウンセラーは私をよく見てないんじゃないか?"
"50回も会って、大した特徴も見つけられてないんじゃないか?"

なんかもっと、こう、ガツンという一言が欲しかったんだ。
それでも当時は、たくさんいる患者さんの一人だから仕方が無い、と諦めた。

カウンセリング中にけっこう感じること

他のカウンセリングでも同様に感じた。
市のカウンセリングで10回ほどお会いしたカウンセラーさんに掛けられた言葉もどこか例文っぽく感じた。カウンセラーの教本に「患者さんにこういう声かけをしましょう」というのをそのまま用いたのかと疑ったほど。

実感がこもっていない「認める」。
これがずっと心に引っかかっていた。

ところが立場を換えて診る側に回ると患者さんのいろんな生き方、背景が見えてきて、潰されそうになりながらも懸命に「なんとかしよう」という意気込みをひしひしと感じる。私が患者のときに予想していた「「患者の見えなさ具合」は思ったよりそうじゃなかった。しっかりと見えてる。

ある人は周りに細やかに気配りをし、ある人は他の人が見過ごしてしまいそうなことにも心を砕き、またある人は小さな事に喜べる心をを持っている。
カウンセラーである私に足りないものをたくさん持っていて、素直に「すごいなぁ」と思わされる。

私は単純なのでそれを言葉に出して、患者さんが長所を自覚するきっかけにしている。きっと私を診てくれていたカウンセラーさんもこんな気持ちになったことがあるのではないかと思うのだけど、宗派(カウンセリングのやり方)によっては禁じられてるのかしら?

長所はじゃんじゃん言った方いい

もしそうだとしても、私は長所を口に出して言った方がいいと思う。
私に助けを求めて来る人は、「心がスカスカ」で何かで満たしたいと思ってるから扉を叩くわけで、それに応える責務があると思っている。

今ある事態が患者さんにとって「足りないことだらけで最悪」であったとしても、「あなたにはこんな長所が(自然に)備わってるよ」と話しをするだけで、「あっ!思ったより悪くないかも。いや、私けっこう持ってるかも」、に変わることだってある。

これが経験としての「足を知る」ではないだろうか。
見逃してる自分の能力を他者の言葉によって認識し、心を満たす。

その経験を重ねるたびに、足りないものを探すクセから、在るものに意識を向ける習慣へと変わっていく。だから私は気づいたら相手の長所を言葉にしていくつもりだ。