人となりは、言葉となって現れる

過去の自分はキツい奴だったなぁ~と思うし、今でもその片鱗を自らの中に垣間見ることがある。
一言でいう「性格良い・悪い」はキツさとも表される自己中心性・排他性を指しているのではなかろうか。

例えば先ほどの記事で、

まぁ勝訴なら、上告する必要もないから弁護士さんのお手を煩わすことはないんだけどね。 

 に対して、仮に「弁護士を使う必要はないんだけどね」という文だった場合、
自分が弁護士を使ってやるという自己中心的な物言いの印象が残る。
しかし「お手を煩わすこと」という表現に変えると、
弁護士さんに助けてもらっている感が出る。

たったこれだけ、これだけのことで他人が抱く私の印象が変わる。
弁護士を使ってやる立場でモノを考えているのか、助けてもらっている立場で考えているのか。
こういう些細なことこそ自分の心理を反映しているので、私の考え方そのものが他人に伝わるのだ。
そのことを知らない人々は、自分の言葉を振り返ることなく「なんで私キツいって言われる?嫌われる?」と疑問に思ってしまう。
たとえ付け焼き刃で丁寧な言葉使いをしても、やはり言葉は心を映し出す。


「どうせ」「○○なくせに」「使えない」「そうはいうけど・・・」「しょうがないじゃん」
これらの言葉を使う魅力的な人を見たことがない。
やはり魅力的な人は
「きっとできる」「あなただから」「力になってくれない?」「分かるよ。じゃあここを○○してみるのは?」「できること・できないことを分けて考えよう」
といった下支えしてくれる言葉を発する。

私は仏じゃないので、親にされたことを未だに恨んでおり、その心根が言葉となって現れる今を、えいやっと簡単に変えることが出来ずに留まっている。
がしかし、留まることの愚を知っているので、せめて文章にする上では複数の言葉を考え、ふさわしい言葉を選びたいと思っている。

日常で、ぱっぱっぱとやりとりする言葉を変えるのは無理でも小さな事から意識は変わる。
いつかすてきな言葉で自分の意志を伝えられる人になれたらな♡と思う。