人の役に立とうとしてはいけない?!

「人の役に立つことは、良いことだ」と思っていました。誰かが○○が分からないと言えば、分かる文書を送り、△△が美味しそうと言えば、それを贈りました。

けれど、分かったんです。言葉は言葉どおりではないと。

してもらう側になって、ようやく身をもって感じることができました。してもらっても全然嬉しくなんかない。それより押しつけられて重苦しい。

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人の役に立つことの弊害

人を助けるのって、気持ちいいです。与える行為ですから。貸しをつくるという強い立場を手に出来る。そして「自分はこれほど役立てるのだ」という自己肯定感を得られる。

それでも真の意味で助けになったのなら、Win-Winです。そのためにまず、相手が何に困っているのか正確に掴まなければなりません。

ひと言、○○が分からないといった言葉にも、いろんな困りごとが考えられます。

  • 単純に分かりたいのに分からないから困っている
  • 自分だけが分かってなくて、置いてけぼりを食らっている感じがするから困っている
  • 困っていると表明した方が、マウンティングを呼び込まないから自衛策として困ったふりをしている

内容はさまざまです。ところが、強い立場を得ること・自己肯定感を得ることに心奪われている人は、中身を吟味することなく行動にでます。

困ってる内容を勝手に推定して、ご丁寧にも解を出してくる。

された方はどう思いますか? →→→ 「押しつけがましい」。

的外れな回答をされては、助けにならないどころか、人の善意は無視できないしと余計な気づかいをさせられるはめになります。だから、手軽に人の役に立てるという発想は捨てた方がいいです。

正しい介入の仕方とは?

唯一手を差し伸べられるとすれば、それは事情を聞くことです。困ってる内容を把握するためと、相手が考えを整理するという二つの目的のために。

「もう少し詳しくいうと?」「具体的に困るのはどんなシチュエーション?」。こうやって一人では考えの及ばなかった範囲に質問という形で考えを広げるお手伝いをすることで、納得できる解を見つけさせる。

これが役立つの本質です。

解決しようともがく主体性を奪わないことは、相手に自信をつけさせると同時に、後々なんでも相談されて代わりに解決して!と望まれることを防ぐ目的もあります。

代わりにやって上げたら、また次も、という依存心が生まれます。依存の芽は早々に刈り取ってしまうのがベターです。

実力のないまま人の役に立とうとする人

強い立場に立とうとする人ほど自信がなく、それをカモフラージュするためやたらと人の役に立とうと解を急ぎます。けれども、それでは本当の意味で役には立っていません。それは言わずもがな、「考える」に取り組んでないからです。

「考える」ことの出来ぬ者は、通り一辺倒の答えを出します。つまり、一見してダメなものは、ダメ。けれども、困っている人は、困っていることにあきらめがつかないから困っているのであって、解決の方法が簡単に見つからないから思い悩んでいるのであって、ミラクルな解を求めています。

そんな時、ダメという答えは何の助けになるというのでしょう。

それよりもミラクルとまではいかずとも、解釈を変えるとこんな風に諦められるであるとか、なんとか損してもこの程度に留められるよ、と口添えすることで、困り度合いを減らすことの方が助けになるのではないでしょうか。

この柔らかな発想の根底には、「なんとかなるさ」精神、つまり肯定感があります。

ということは、自己肯定感を得ようとして現在自己肯定感不足の人には、人の役に立てるだけの心の素地が整っていないことになります。

真に人の役に立つには?

だからこそ我が力不足を認め、人の役に立とうとする気持ちを封印することを勧めるのです。そして、何か「やる」を辞めて、話を「聴く」に切り替える。自ら解決するを手放して、自分で解決できるようにサポートするに徹する。

それだけで十分な貢献です。それも、言葉のサポートだけの方が、「なんかお返ししないと悪いなぁ。」といった気づかいを持たせずに済みます。

結局どんなお困りごとも、向き合うのは当人です。それを重々理解した上で「自分は添え物」という感覚を持てたとき、役に立ってやろうなどというおごりは消えてなくなるのです。

真に人の役に立つには、「主役を輝かせるための脇役で十分」という人間的成熟さが必要なのだと思います。