メダリストが口にする言葉の意味

ここ最近冬季オリンピックがメダルラッシュで、ニュース番組はこぞってメダリストのインタビューを放映している。
その中でも特に印象的だったのが、41歳という年齢で銀メダルを獲得した葛西選手。

表彰台のガッツポーズも心がしっかり入っていてカッコよかったし、インタビューに答える表情も自然ですばらしかった。
そんな葛西選手が、「メダルを誰に渡したいか」の質問に、「家族に」と答えていた。
そして「家族が支えてくれたからこそ、この勝利がある。恩返しできた。」とも言っていた。
この映像を1度、2度、3度、4度くらいみたくらいからだろうか、
私の中に「嗚呼、この日本語はこういう意味なのか!!」という思いがわき上がってきた。

 

実は私は今までメダリストが家族というキーワードを使って自分の気持ちを伝えるのは、表面上の取り繕いだと思っていた。
「家族が支えになった」と答えていれば、周りから反感を買うことはないし、うがった目でみられることもないし、無難だから⇒と真剣に思っていた。

私にとっての家族とは、私の心をつぶし、私から搾取する相手でしかなかったので、支えになるというのはいまいちピンとこなかった。
でも、メダリストの家族エピソードや家族のインタビューを目の当たりにして、「えっ?!支えになる家族って本当にいるんだ!!」というのが徐々に頭に入ってきた。
私が味わってきたのとは違う家族という温もり。

私はいままでずっと、根無し草のように水面を漂い、強い風が吹けば飛ばされ、雪が降れば押しつぶされてきた。
だって、何の支軸もなかったから。
一方大地に根を張り、強い風に耐え、雪解けを待ち芽吹く花木も確かにこの世にはあったのだ。

他の人はどう思うか分からないが、私にとって葛西選手が話している言葉の理解がこんなにも色彩を変えて、自分の心に入ってくることは、隕石が降ってくるくらいの強烈な出来事だ。

先の記事に書いた自分を強くすることは、家族という支えを持たない者が、家族という支えを持つ者と同じ心のよりどころを手にすることである。
他者に恵まれず、実際によりどころを手にできなくとも、心の中にそういう存在を育てあげることである。

私が生き、見、感じてきた世界と家族という支えがある人が体験してきた世界はこんなにも違うのかと驚きを隠せずいる。
2014年始まってからの、驚愕の出来事だった。