捨てられる命・拾われる命-選択の厳しさ

我々は必要な物と要らない物を分けて暮らしている。
卵焼きの入ったパックは、中身の卵焼きは要るけど、食べた後のパックは要らないから捨てる。
ある程度画一的に要る・要らないが判明するものもあれば、
あるとき惹かれて購入したお土産品が、3年もすると古びたデザインのように感じられ、品としては変質していないにもかかわらず、要る→要らないと変遷するものもある。

また有るときは便利!と感じたグッズが生活スタイルが変わるに従い、出番が少なくなって、必要→不要となる場合もある。

これらはモノが対象故に、そこまで疑問の感じず要る・要らないの仕分けが出来る。

が、それが人の命の場合どうだろう?
ー人の命は地球より重いー
そう思って生きている我々も、泣く泣くながらとはいえ、中絶という選択をしている。

犯罪に巻き込まれたなどのやむを得ぬ理由を除いて、性行為そのものは自分の意思で行っている。
ということは、その先に新しい命の誕生があることは、ほとんどの日本人が知っていること。
なのに2013年の中絶件数は18万件超と、けして少なくない胎児がこの世に誕生することなく去っている。

ある命は、家族みんなから祝福されて誕生し、別のある命は誰にも知られることなく葬り去られる。
厳しいようだが、ここに要る・要らないの選択が行われている。

即ち、この世の中のどの対象であっても、選択の運命下に置かれるのだということを、我々はどれほど理解しているだろう?
同じ命なのに、差別されている。もっと言えば、仕分けされている。

人は、モノと一緒なのか?
そうではない!と言い切りたいが、この現実はやはりモノとしての側面も否めないといっているようである。

果たして、自分という命は、モノ以上の価値があるのだろうか?
なんとも言えぬ感が自身を覆う。