何かをするとき、つい「だれかに叱られるんじゃないだろうか?」という思いにかられることはないでしょうか。
たまたまレジで小銭を出すのに手間取った、散歩させてる犬が急に走って人の庭に2、3歩足を踏み入れてしまった、自動車の右折のときタイミングが合わず信号の変わった瞬間に右へとハンドルを切った。こんなどうしようもないことでも、「やっぱり私が間違ってるよね」と思い込んでいるため、注意されたら、シュンとなってしまう自分がいる。
予定通りにいかないことはあるし、守りたくても守れないルールが出てくるときもある。四角四面に、「これが正しい!」と旗を振るわけにはいかないことは多くあります。
そんなときでも、白旗ばかりあげていると、声の大きい人にいいようにされてしまいます。どうやったら、少しでも強く、賢く、たち振る舞えるんでしょう。
「叱られる」ことを恐れる人は頭カンカチコン
「叱られないだろうか?」と考えてる人って、頭がめちゃくちゃ硬いんです。「叱られないためにどうしたらいいか」ばかり考えてるため、考えるということをまったくといっていいほどやりません。同じ話を繰り返したり、不満は言うけど解決方法は考えないし、人のアドバイスは全否定。
どこぞの老人かと思うほどです。
そんなカッターイ頭じゃ、口八丁手八丁な相手と闘えませんよね。だからまず、頭を柔らかくするために、いつもと違うことを考えてみることです。
たとえば、叱る人の叱る理由について考えてみてはどうでしょう。
人が不満を口にするとき、言い方なんてなんでもいいはず。「叱る」以外に、「諭す」とか「説明する」とか「希望を述べる」とか、いろいろあるじゃないですか。でもそれをじゃなくて「叱る」一本槍って…、相手の心の奥になにかありそうですね。
「叱る」本当の目的は?
相手はなぜ「叱る」を選ぶんでしょう。
それは
ー都合が良いからですー
「叱る」という態度に出ている限り、自分だってそれくらいのことやってるかもしれないけど、それを覆い隠すことができる。ミスを糾弾することで、日頃のストレスを解消している。
自分の都合を優先すると、「諭す」でもなく、「説明する」でもなく、「希望を述べる」でもなく、「叱る」これが一番。
だとしたら、ツマラン個人の都合のために、あなたがシュンとなるのは、大間違い。「叱られた」という事実だけで私が悪いと決めつけるにはあまりにも時期尚早です。
相手に一撃を食らわす一言
実るほど頭を垂れる稲穂かな、という言葉どおり、人は偉くなるほど怒りから感謝へと気持ちが傾いていくもの。しかし、自分の都合ばかりを押しつけて「分かってくれよ」とゴネる人間は、年だけ取って、頭は垂れるどころかエラソーにふんぞり返っています。
そういう人は、自分の姿勢を変えてみたことがありません。だからこそ、「なぜ、ふんぞりかえる以外の姿勢にしないんでしょう?」と尋ねてみるのです。人間、やってみたことのないことを、やってみたら?と言われると、少しは我に返ります。
すなわち、「~出来てないじゃない!」と叱ってくる相手に対して、「ずいぶん感情的に聞こえます。『~出来てないじゃない』ではなく、『~が出来ていないので、いついつまでに何々をしてください』といった言葉を選ばない理由はなんですか?」、と尋ねてみます。
「すいません」か「だって~」という返しを予想しているところで、まさかの問いを発せられるわけですから、相手は面食らうことは間違いないでしょう。別にこれは議論をごまかそうとしているのではありません。「これは分かるものだろう」という甘えを取り去る大事な作業なんです。
感情的に叱る人は、「人は私の気持ちを分かってくれる」という固定観念に囚われすぎです。私達はぜんぜん人の事が分からないのに、人は自分のことを「分かってくれる」と思ってる節があります。自分はできないことを人に期待するなど、バランスに欠ける考えだと、思い知るべきです。
これで「叱られる」のも怖くない
感情と距離を置いている大人は希少です。それほど多くの人が、感情にまかせて叱ってしまいます。だからこそ、叱られる側は分かってなきゃならんと思うのです。
このお叱りは、相手の未熟ゆえの結果だと。相手は幼いのだと。
そう思えたならば、「叱られる」ことへの恐怖心も少しは抑えられるんじゃないでしょうか。
誰もが間違い、直さなくてはならないことに出くわします。でもそれは、自分が悪いからじゃなく、「間違えた」、それだけです。それ以上の恐怖を味わわせようとしてくるならば、そこには叱ってる当人さえ気づかない余計なものが混じっています。
そうやって世の中を、冷静に見つめられるようになれば、「だれかに叱られるんじゃないだろうか?」という幻想から卒業できる日もそう遠くないと思います。