寿司のシャリを残すのはいかがなものか?という議論

ちょっと前に、若い女性が寿司のネタだけを食べて、シャリを残すことが話題になっていた。
私は大食いなので、シャリを残すなんて、なんと食の細い女性だろう!と驚いたが、一般的には叩かれるような話らしい。

これは、寿司に限らず、食事の仕方、もっと視野を広げるなら、衣食住にまつわる出来事に波及する問題なので、一度立ち止まって考えてみたい。

双方の言い分を検証

【シャリを残す側の言い分】
・刺身をたのめ!というけど、私は寿司のネタだけを食べたいの。酢飯の酢の香りが移ったネタが好きなの。
・私の職業はスリムな体型なくしては成り立たないの。シャリまで食べていたら、無職になる。だからこれは必然なの。
・シャリを食べると3貫でカロリーオーバーのところ、シャリ抜きだと7貫食べられるの。バリエーション豊かな食を楽しみたいわ。

なるほど。どれもそれなりに理屈は通っていると感じる。

【シャリを残すべきではないと主張する側の言い分】
・寿司職人の気持ちになってみろっ!!精魂込めて握ったシャリが残されているのをみて、虚しさが漂うではないか。
・残したシャリは廃棄される。食べ物を粗末にしすぎだ。
・寿司というのは、シャリとネタがセットになった芸術品なんだ。それを勝手に分解しちゃいけない。

こちらも、そうそうとうなずきたくなる理由ばかり。

はっきりいって、どっちに軍配とはいきませんなぁ。

双方の共通点を探る

互いの違いを際だたせても、解決は見込めそうにないので、ここは一つ共通点から考えていこう。

まず言えるのは、
両者、寿司が好きだということ。
そして、
寿司職人の握る寿司に価値を見いだしているということ。

日本食も日本食を担う職人さんも好き。
何かに恨みがあるとか、嫌がらせをしようとか、そういう腐った心があるわけじゃない。
ただ、その好きへの接し方が違う。

これは立場の違いから生ずるものだ。
片側は食事量に制限が有り、もう片側はない。

「ある」と「ない」で、接し方が異なるのは当然ではないだろうか?

他分野で考えてみる

商売の売り手と買い手で考えてみよう。
売り手は1円でも高く売って利益を確保したい。一方買い手は1円でも安く買って、経済的負担を減らしたい。
そのとき、じゃあ商売しないよ!とはならない。
お互いに妥協できる価格を探して、商品がもたらす恩恵を享受する。

世の中、相反するものだらけで、でもほとんどが決裂せずになんとかゴールに落ち着いている。
商売の神様と呼ばれる人達は、この相反を上手い形で昇華していってる。

例えば、安く買いたいという顧客心理をよくよく観察して、

本当に「今」安かったら良いのか?
それとも、ライフ(製品の生涯)で安くなったらいいのか?
はたまた持っているだけでカッコイイとされる外からの賞賛も価値に含めるのか?
ヴィンテージとしての価値(転売価格)も考慮の上で安ければ良いのか?

様々な方向から考えて価値を提供することにより、顧客それぞれの持つ「安ければよい」の本意をくみ取って、きちんと対応している。

シャリ問題を解決する方法

では、元の話に戻って、寿司のシャリを食べるか、食べないかを考えるとき、寿司職人側から出来ることは
・メニューに酢飯なし、もしくは極小の欄を用意する。ただしネタは一度手で握る(酢飯の香りをネタに移すため)。
・お客さんに出した最初の1貫のシャリが残った場合、シャリに対する意向を訊く。
・もしかしたら、お客さんの中には、シャリを残すことに贅沢さを感じる人もいるかもしれないので、その場合は残ったシャリの転用方法を考える(ぺったんこにして焼き煎餅みたいにするとか)。

お客さん側は、
・シャリを食べないことをあらかじめ店側に伝える努力をする。
・さらに言えば、刺身として出されないために、寿司のネタとしての価値をどこに見いだしているのかを伝えると尚良い。
・けして、シャリを食べないのは私の自由!とふんぞり返らない。

商売の神様の例で見たとおり、相手の本意をくみ取ることで相反を解消するのが、一番満足度が高い。
この理屈に沿えば、職人側が努力すればいいことでは?と思うだろうが、私はそうは思わない。
人と人が接するとき、どっちが偉いというのはない。
どっちも気持ちよく寿司と向き合おうとする責任がある。

だから、客側も努力する。

食の好みが多様性を帯び、自分では想像のつかない食べ方をする人が増えた現在、自分の常識は世界の非常識になることは、疑いようがない。
なのに食べ方でさえ、制限されては、1億総金太郎飴になる。
みんなが同じ食べ方をしていたら、これから訪れるかもしれない食糧難を乗り越えて、生命を後生に残していけるだろうか。

我々生命は幾度となく訪れた大量絶滅の危機を乗り越えてきた。これは多様性のお陰である。

進化とは?

病院などで感染の広がった菌が、薬剤耐性を身につけスーパーなんちゃら菌としてしぶとく生き残る、といったニュースを耳にしたことがあるだろうか?

あれは、まさに菌が進化したのだ。

生きていくためには、それくらいしぶとく自分を変身させなければならない。
だが、相当な数に増えてしまった人間は、変身させなければならないという危機感を失い、今、この瞬間の快適さに身を興じるようになった。知っている、お馴染みのものに浸かることに慣れてしまった。

誰でも知らない世界に向けて発進するのは怖い。
でも生きるというのは、そういうことだ。
今日が昨日のまったく同じコピーだったら、たぶん生命はあと100年持たない。

自分も変わる、人も変わる。新しい考えが生まれる、知らない価値観に触れる。
目の前にあるものは、すべて現実。

その現実を受け止めるために、我々は見知らぬそやつらと対話をしていかなければならない。
(なんか壮大な終わり方になってしまいました。ゴメンちょ。)