不美人は不幸になるのか?

アイドルのようにかわいい顔で生まれたら
と、妄想したことはないだろうか?
世間の女性のほとんどは、美人ではない。
美人でないことが、どのように人生に関わってくるのか、考えてみる。

美人が得なこと

私が思う美人で得なことは、写真に対してコンプレックスがないことだ。
美人にとって普通に取った写真は違和感のない絵面だが、不美人にとっては普通の顔が変顔のように見えて恥ずかしい。
だから不美人は写真に写ることも、写った写真を見ることにも慣れない。
遠足や運動会で「撮って撮って!」とお願いする無邪気さは、美人だけのものである。

写真だけではない。笑顔もだ。
美人が笑うと、それだけで周りから好意的な反応が返ってくる。不美人の笑顔は無視されるか悪意が返ってくる。
同じ人間なのに、「オマエはヨシ、オマエはダメ」という線引きがある。
美人だけが良い待遇を受けると、不美人はホント生きてるのが嫌になる。

写真も表情も、美人はとにかく好意的なフィードバックが得られやすい。
好意的フィードバックがそのうち心の中に定着して、健やかな自己肯定感が生まれる。
一方で、不美人は悪意(主にダメだしや潰し行為)が返ってくるため、自己否定感が定着しやすい。

美人が充実して生きる理由

美人は自己肯定感を基礎として、新しい挑戦をする。途中壁にぶつかっても、定着した自己肯定感に助けられて、たゆまざる努力をし、結果を手に入れる。
その実績がまた自己肯定感を強化する。
不美人は自己否定感を基礎として、分かっていること・着実なことを目指す。
時に冒険してみようともするが、途中で壁にぶつかると、定着した自己否定感が姿を現し、即辞めるよう悪魔がささやく。結果、たいしたものが得られず、余計に自己否定感が強まる。

どちらのループも、既に出来上がった自己像を確かなものにするために、働く。
だから美人の方が達成感のある充実した生き方になる。

子供が美人でないことを悲しんでいたら

では、生まれながらにある程度決まっている美醜は、どうしても超えられない山なのか?

例えば、美人の友達を持つ我が子が、「どうして私はこんなにかわいくなく生まれたの?友達の○○ちゃんはかわいいから、みんなから優しくされる」と嘆いたとしよう。
貴方が母親ならどう答えるだろうか?

「顔なんて成長と共に変わるわよ。お母さんにとって、貴方はとっても美人に見えるわ」とごまかすだろうか?
このように言われると、子供は傷つく。
子供の目の前に拡がる景色は、○○ちゃんだけが優しくされる世界。お母さんがごまかすということは、それだけその事実から逃れられないということ。最後通牒を受けた気分になる。

では、なんと言えば良いか。
それは、世の中に横たわる事実を認めることだ。
「そうね、確かに○○ちゃんはかわいいし、周りも優しくしているね。貴方はそれを見て、自分が優しくされないことに傷ついているんでしょ。」
その上で
「でもね、人から優しくされるかされないかは、なにも顔だけで決まるわけじゃないのよ。心、貴方の心。それで決まる方が多いの。」
「貴方が傷ついている人にそっと寄り添って優しい言葉を掛けたとするでしょ。そうしたら相手はきっと貴方に優しい心で返してくるわ。もらうのを待つんじゃなく、自分から渡すの。そしたらね、倍になって返ってくるから。」
「その優しさはね、いくつになってももらえるのよ。かわいいは年を取ったら消えてしまうでしょ。それに比べて、人に寄り添える心は何歳になっても持ち続けられるの。一時優しくされるのと、ずっとされるの、どっちのほうがいい?」と答えてみたらどうだろう。

避けられない事実から目を反らすことなく、けど、もっと素晴らしい優しさの存在を示せるのではなかろうか。
そして、実はこの答えが子供の自己肯定感を強化する。
子供が抱いた理不尽さを認めることで、自然と湧いたその感情は正当なものであることを保証し、且つ、考え方を工夫すれば問題は解決できると示せているのだから。

母親の柔らかい発想が、子供にどんなことにもめげない力強さと、考え方を工夫する知性を授ける。

不美人でも挽回できる

先に示したように、充実した人生を送れる鍵は「自己肯定感」だ。
この自己肯定感、実はなかなか手に入らない。
でも、ご安心あれ。

1年~1.5年かければ、自己肯定感を取り戻せる方法に巡り会った。
いつかご紹介できればと思う。