大勢が賛成するから、その意見は正しいのか?

大勢が賛成と考えているものを、少数が否定した場合、即刻退けられるものなのだろうか?
日常生活において、常識外れとされるものは、全否定される。
例えば婚活で高望みする比較的年齢の高い女性に、「そんなエリート、もう結婚してるよ。いい加減、現実見たら?」と返すように。

少し前まで、私もそこに異を唱える気はなかった。
だが、対話の本髄に近づくにつれ、受け流していたことでさえも、疑う余地ありと気づいた。
どんな常識外れな言葉も、その裏に当人が抱える価値観が横たわる。
それを見ずして、否定するのは時期尚早ではないだろうか?

我々の身に染みついたクセ

どの人も自分が正しいと思う基準がある。
子供は大人より知らないことが多く未熟である、とか、自転車がチリンと鳴らしたら道を空けようする、とか。
ごく自然に、大勢の人が受け入れてることなので、深く考えない。
もちろん、それで何の軋轢も起こらないなら、特段話あう必要はない。

だが、多様性が台頭する現代、暗黙知のそうだよね、だけで乗り越えていけるのだろうか?

朝5時に雪かきをするのを辞めて欲しいというのは、御法度か?

発言小町を読んでいたら、お隣さんが出勤前に雪かきをするようで、朝5時に物音がするのを辞めて欲しいといってもよいか?という相談が寄せられていた。
雪国では、出勤するために雪かきは欠かせないので、5時に雪かきするのは避けられないらしい。
寄せられた意見のほとんどは、「雪国なら常識。朝5時なんて、起きる時間だよ。音立てても迷惑じゃない」というものだった。

多くの人がそういうということは、この習慣が長く受け継がれているのであろう。
ただ、気になったのはそのことを伝える口調だ。
糾弾するかの如く、”あんた何言ってんの?非常識じゃないか”感が強いのだ。

投稿者には、投稿者の考えがあって、相談しているのに、そこは無視。
大勢の意見は相当、偉いらしい。
でも、もしその圧力を許したら、少数意見は潰され、変化の灯火が消える。

受け入れろとは言わないが、投稿者の考えに耳を傾け、内容によっては考えを改められる筋道を立ててやることが、敬意なのではないだろうか。
だれもが常に正しい判断を出来るわけではない。だから、相談する。相談は、自分の考えを省みる手伝いをして欲しいというお願い。
それをここぞとばかり、日頃の鬱憤晴らしも兼ねて、めった切りにするのは、浅はかな気がする。

変わっていくことを恐れない

あるときは正しいことが、別の時は間違ったことになる、ことなど往々にしてある。
その転換機には、大勢が賛成しているから是という流れが、もしかしたら少数も見る価値があるんじゃいか?という対話が存在している。

当たり前だと受け流していたことが、当たり前でなくなる日は、そう遠くないのかもしれない。
旧来の常識を盾にした会話は、今の時代にそぐわない。
みんなが、大勢の賛成を根拠に受け流すことなく、立ち止まって考える世界が来れば、分かってくれないとストレスを溜め暴発する人の数も減るのではないだろうか。