おしゃれブロガーあるあるの先に見える虚構

インテリア、ライフスタイルといったものに注目を集めるおしゃれブロガー。
とっても素敵でいいじゃない!と感じる人がいる一方、違和感を感じる人もいる。
違和感を感じた人々が集う「おしゃれブロガーあるある」は、かなりの盛り上がりを見せている。

何がそこまで人々を盛り上がらせるのだろうか?

「すてきな私」劇場の無理感

あるあるトピックで叩かれるのは、幸せな私の演出、を頑張っているブログ。
夫に愛される私、センスのよい品に身を包まれた私、子供と楽しく暮らしている私。
聞いてる側は、おなか一杯です。

それだけではありません。4つの違和感を感じます。

  1. 論理的破綻を予見させる違和感
  2. 経済的破綻を予見させる違和感
  3. 言語に対する違和感
  4. 視線の方向に対する違和感

【論理的破綻を予見させる違和感】
盛られた食事の量が少なすぎる
出ているお皿の数が多すぎて洗い物大変じゃないのか?
手作りおやつ作る時間、そんなに取れる?
同じ用途の道具を複数持って、邪魔じゃないか?
棚に飾り小物置きすぎ、掃除しにくくないのか?地震対策は?
それだけ写真撮りまくってたら、周りを待たせ過ぎない?特に子供。
そこまでモノの色って統一できるっけ?
入れ物のデザインが優れているからって、中身が高くて使い心地のイマイチなら意味ないのでは?

【経済的破綻を予見させる違和感】
たくさん買っただの、買おうだのしているけど、その資金はどこから来たの?

【言語に対する違和感】
買い物したことを「お迎えした」と表現
品物を「この子」扱い
品物を売ったりあげたりしたとき「お嫁にいった」という
実店舗で売っていたものを買ってきたら「連れて帰った」
漢字を使わず、平仮名多用

【視線の向きに対する違和感】
「掃除を終えて、お茶タイム。テラス席が好き」←何目線?
夫が○○してくれましたぁ~←それ、内々で収めておけば?
「紹介させて下さい」「報告させてください」「お譲りさせてください」←なぜ、させてもらわにゃならん?
丁寧な暮らし←自分でいうことじゃない。心に秘めとけよ。

「すてきな私」劇場を運営するために、ステージママばりのゴリ押しで、お腹いっぱいの客に違和感を押し込みます。
当然ながら多くの観客は押し込み圧力に辟易します。ところが一部の客には受け入れられる。
同じ土俵にいる一部のお客らは、自分たちの寸劇の滑稽さに気づくことなく、互いを褒め称えます。
そんな姿に外野はますます冷めていく。

エンターテインメントとしての需要はある。ただし批判覚悟で。

ところで、もしこのブログが、平々凡々な日常を描いていたら、読みに来るでしょうか?

子供に手作りおやつを作らず、ハッピーターンをあげるだったら?
お昼ご飯はカフェで食べるようなおしゃれ飯ではなく、カップラーメンだったら?

当たり前過ぎてだれも寄りつきません。
非日常、それも手の届きそうなエンターテインメントだからこそ、集うのです。

エンターテインメント性を打ち出すには、2つの演出方法があります。
一つは、理想らしい理想を描き出して、羨望を集める演出。
一つは、皆の心の底にある感覚を引っ張り出して、感覚を際だたせる演出。

前者は、清濁合わせ込んでの「濁」を取り除くため、意図は伝わりやすいものの、現実味がない。そのため手の届きそうな日常をテーマにすると、「そんなうまくいかない」と批判を受けやすい。
後者は実際の心情を引き出すので、心情を持っている人が多ければ多いほど共感を呼び、賛同が得やすい。

おしゃれブログのように手の届きそうなものごとは、参加できる可能性を秘めた人が多いだけに厄介です。
あまりに凄すぎる人を前にすると、すんなり諦められます。他人事と割り切れます。
一方自らも参加できそうと思うと、一度は真剣に取り組むし、出来なかったら出来なかったでかなり悔やむ。そして出来る人を恨む。
つまりおしゃれブロガーは性質上批判を避けられないのです。

「すてきな私」劇場を観る人の思考

読者のなかには、アフィリエイト(商品を紹介して紹介料を稼ぐ手法)に走ったブロガーに嫌気がさして読むのを辞める人がいる一方、批判的に感じながらも見続けてしまう人がいます。

この見続けている人に対して、「批判的に感じるのだからやめてしまえばいいのに、矛盾してるなぁ。」と感じるかもしれませんが、そこにはれっきとした理由があります。

それは自分の目指すものを見つけられていないこと。

見つけられていないから、とりあえずみんながいいというものの一つであるおしゃれブロガーの生活に関心を抱くのです。
ブロガーの生活を垣間見ながら、かりそめの自分を想像してるんです。

はっきりいって、他人の暮らしはどうだっていいじゃないですか。
「いい品物買って、幸せだーって連呼したければ、勝手にすれば。」なんです。
ブロガーの情報を利用して、より豊かに暮らせれば、それでいいではありませんか。

でも、できない。見ないぞ、としてても見てしまう。それはもはや中毒に罹っているといってもいい。
情報を利用してやる!という主体ではなく、情報を見ないと気が済まないという依存へと落ちていってる。おしゃれブログという精神安定剤を手放せなくなっている。

おしゃれブロガーと批判読者は同じ穴の狢

おしゃれブロガーが犠牲にしているもの。それは周りへの敬意です。
夫の意向を無視し、子供に好みを押しつける。
結果として、目の前の人々を不幸にしてしまっています。
賞賛をもらう私という人物になろうと必死。

読者もそれを分かって尚、飛び抜けた感性を披露するトップブロガーへの関心を捨て去ることができない。トップブロガーのようになりたい、それが自分らしさだと感じて、必死に近づこうとしている。
ブロガーも読者も、何者かになれる自分を死にもの狂いでかき集めている。

でも、それって幸せになれるんでしょうか。「すてきな私」になれるんでしょうか。
先におしゃれブロガーは性質上批判を避けられないと言いましたが、賞賛集めという欲をかかずに、淡々と綴ればそれほどの批判は来ないと思います。

本当のおしゃれは、意思をもって生きること。
周りと協力して暮らしていくこと。

何者にもなりきれない自分の逃げ先として駆け込んだおしゃれブログという虚構に、人々を幸せにする力はありません。
ブロガーも読者も、主体性を持って情報に接することができたとき、ブログに踊らされる人生は終焉を迎えるのではないでしょうか。

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