信仰は本当に人々を救うのか?

ー苦しいときに誰かに助けて欲しいー
と思うは、万人の抱く思い。

だからどの宗教も、苦しいときこそ救いの手を差し伸べている。
だけど、山ほどある宗教ゆえ、どれを信仰していいか分からない。だから、偶然出会った宗教を選べばいい。それが「縁」ってもんだろ。

うん、なるほど、と頷きたいが、そういう流された考えこそが、苦しみを招いたって気づいてるだろうか?

自らが苦しみを生み出すというマッチポンプ

苦しみの正体は、出来事の中身によるか?

実は、出来事の中身ではなく意識の問題。
ある困り事に、【諦めなきゃいけないと考える頭】と【諦めたくないという心】が拮抗して苦しみを生み出してる。

出来事をなんとかしようとする場合、意識を司る頭も感情がわき出してくる心も、「解決する」という方に向くため、苦しくない。
それがなんともしようがないとした場合、頭は「諦める」を心は「解決する」を向くため、苦しむこととなる。

何事も「縁」で選ぶということは、偶然あるものを抗うことなく受け入れるということ。なんともしようがないと諦めること。考え抜いた末の結論ではないぶん、心は納得いかない。そこで両者がぶつかり苦しむ。
信仰があるとかないとかとは無関係に、意識の持ち方が自分を苦しめてる。

「自分で主体的になんとかする」意識さえもてば、苦しみから解放される。

どうせ信仰するなら、絶対に裏切らない相手を選べ!

自分が主体的であれば苦しくなくなる、といった。主体的であるということは、もちうる限りの知性を注ぎ込んで、問題に向き合うということ。
つまり自分の内面とトコトン話合うということ。

一度考えて出ない解も、100回考えれば出る可能性がある。だれかに相談して、ヒントをもらって、解に気づくことだってある。そうやって自分の底力を信じて考え抜くことで、最適な解に近づく確度はぐっと上がる。

どれだけ総帥とか教祖が世の中を知っていても、自分の問題に一番詳しいのは、自分。
そして、何時間だろうが、何日だろうが、そのことに真剣に取り組めるのも自分。他の人間は、「家族との時間」とか「食欲や睡眠欲を満たす時間」を、あなたの問題解決より優先する。

どうせ信仰するなら、絶対に裏切らず真剣に向き合ってくれるご自分の底力を信じてみよう。

本当に救われたければ、を考える

個人的に宗教とは依存をベースに成り立ってると思う。

苦しいときに手を差し伸べてくれる→感謝感激→信仰するようになる→また苦しくなったら頼る→感謝感激→・・・の無限ループ。
一度助けられたなら、その安心感にハマること間違いなし。
守ってくれる人のいる世界で箱入り娘のように大切にされると宗教の中でしか生きられなくなる。信仰中は、他の価値観に触れることを禁じられるため、視野が狭まり客観性が失われ考える力は弱体化していく。

あなたに最期までつきあうのはあなたしかいないのに、そのあなたを弱体化させて、宗教なしではいられなくしている。
これって、救いじゃなくて、依存でしょ。

確かに生きていく上で緩やかに他者に頼ることは必要だ。でもあくまでも緩やかに。頼る相手だって、問題毎に選び分けなくちゃいけない。本来頼ることでさえも「どこまでは頼ってどこからは自分でやるかという線引きや誰を頼るかという人選」は主体的に決めなければならない。
頼るという行為に考えるはつきものですから、ちゃんと自分を強化することに繋がってる。依存とは違う。



苦しみに手を差し伸べてくれる宗教は最初とても心が軽くなる。でもあまり人様の手ばかり借りていると自分の筋力が退化して、最後は意に沿わぬ事に抵抗さえできなくなる。自分を押し殺して相手に従うしかない人生を歩むのは、苦しみに近づいてるの同じ。
一方で自分で考えるのは最初は苦しいけど、考えているうちに筋力がついて、最後は楽々と世の中を渡り歩くようになれる。

本当の意味で、救われるのはどっちだろうか?
それが分かれば、信ずるものは、神か己か、分かるように思う。