世の中は論理的であることを強く求める。
確かに整理された文章は読みやすく、読後伝えたかったことが、しっかりと頭に残る。
みんながみんな、そういう文章を書けたら、言葉を話せたら、世の中の混乱はずいぶんと減るだろう。
だが、我々ACは論理的に発することが苦手だ。
少なくとも私は18歳の時、自分の論理性のなさに気づき、それなりに書物を読み、論理性の要求の高い職業に就き、努力してきたが、未だ以てこの程度の文章しか書くことが出来ない。
それは、私の中のあるものが邪魔をするからである。
今日は論理性のなさに悩むACを代表して、いろいろと述べたいと思う。
ACの論理のなさはどこから来る?
ACはけっこうおしゃべりな人が多い。人見知りであっても一度心を許すと、堰を切ったように話す。
その内容は多岐にわたり、また一貫性に乏しい。
Aを話題にしていたか、と思うと、突然Bの話をし出す。それは当人の頭の中では連想ゲームのように繋がっているのだが、他の人には皆目見当のつかない繋がりなので、一人独白みたいになる。
それもだーっと話をして、ぴたっと止まる。理由は、自分で話しの中の迷子になるからだ。
何かを目指して話していたのだけど、その何かが突然消えてしまって、カーナビの目的地が突如消えたみたいに、わけのわからないアイドリング状態に入る。
このような話し方になってしまうのは、話せるときに話さないと「やり残しがでる」という危機感からだ。
普段は話すことより聞くこと(聞き役をやらされる)に軸足を置いているので、話せるチャンスを逃したくない。その執念がこうさせる。
周りのご機嫌ばかりを伺って、自分を押し殺すACならではの光景だ。
論理性というのは、相手に伝わることを前提とした話し方だが、ACの場合は話すとは、堰き止めておいたダムを放流することに近いので、論理とか細かいことはごちゃごちゃ言ってられない。大事なのはすっきりすること。論理もへったくれもないのだ。
質問にちゃんと答えられない
これは、ACが質問に答える気がないといってるのとは違う。むしろ誰よりも誠実に答えようとしている。
ところが、話しているうちに、抑えてた感情がどばぁ~っと流入してきて頭の理性を奪ってしまうのだ。感情は頭脳を乗っ取り、今がチャンスとばかりに好き勝手に立ち回る。そうなると理性は無力となる。
もちろん質問した側は「あの…お答えの内容が質問に沿ってないのですが」と警告するだろうが、そうやって仕切り直してもまた話しているうちに感情が入ってくる。
ACに徹頭徹尾質問に即した答えを求めるのは、かなり難易度の高いことと言えよう。
話がなんどもループする
これは私にめちゃくちゃ言えることでもある。あることを伝えたけど、もっと伝えたくて同じ事を2度も3度も表現を変えて言おうとする。
読み手が、「うん、かなりしつこいよ」と思っててもおかまいなしだ。裏を返せば、それだけ強くそのことを気にしている。悲しみや怒りが執着した出来事は、一度言うだけでは成仏できない。私も頭では分かっている、けど出来ない。
感情の成仏なくして、論理性など宿らない
我々がたくさんの書物を読み、資料を作り、経験を積んだとしても、心が安定している人に宿る論理性の足元にも及ばない。心の安定している人は、スタート地点が「どうやったら論理的になれるか」なのに対し、ACは論理的よりも前に、「どうやったら感情に支配されないか」なのだ。スタートからして、遅れを取り過ぎ。もちろん遅れを取り戻す方法は自己啓発の本のどこにも書いておらず、やっては挫折やっては挫折 を繰り返す元となる。
心落ち着かぬまま作業をして、感情を抑えきるなんてこと、出来るのは一部のスーパーマンだけ。ACの全員ができぬとは言わないが、感情に対してなんらかの対処法を編み出した人のみが出来ることなのだと思う。
過去の自分に思うこと
なぜ、このようなことを書いたかといえば、私はカウンセリングを受けたときの音声を録音していて、それを後になって聞いたことがあるからだ。
7年前の私の話は上記に上げたように、論理性のカケラもなかった。とにかく苦しくてはき出したくて仕方無かった。冷静になった今聞いてみると、それは救急搬送された患者のようだった。痛い痛いと叫び、呼吸もままならないほどの混乱を極めていた。そういう自分が当時はそれが嫌で嫌で、恥ずかしかった。
でも今になって思う。それは自分のせいではなかったのだと。むしろ責めることで、また自分の感情を抑えることになり、ダムの貯水量を上げてしまうのだと。
今、仕事で論理性がないと悩んでいる人がいたとしたら、どうか落ち込まないで欲しい。それはあなたの頭が悪いのではない。心が落ち着いてないだけだ。
もし、相談したいと思うならかかりつけのカウンセラーに話してみるといい。
もちろん私も下記サイトで受け付けている。