不慮の事故で身内の命を奪ってしまった人に馳せる思い

先週土曜日父親が2歳になる息子を車でひいてしまうという痛ましい事故がありました。
少し前には祖父母のが飼い犬が孫にかみついて死亡させるという事故もありました。

予期せぬことで身内の命を奪ってしまった人たち。
その苦悩は察するに余りあります。

周りからは責められ、自分で自分を責め、なんど「この命と交換したい」と思ったことでしょう。
生き返らすことのできない命、そしてそれを奪ったのが自分という事実。責任と大切な人を失った喪失感のダブルパンチが、我が身を襲います。

不慮の事故は誰にでも起こりえます。対岸の火事ではありません。でも私たちは「彼らは不注意が過ぎたんだ」とどこかよそ事と捉えています。苦悩は「自分でなんとかしなさい」と。
確かに当事者でないとわかり得ない気持ちです。できれば我が身に降りかかったと考えたくない。だからといって放って置いていいものか、と思うのです。

自助会さえ作れぬ後ろめたさ

一般的に被害者と加害者は別個の人です。つまり被害者は被害者としての立場でいられる。
ですから被害者の立場から苦しみを分かち合える相手と話しをすることも可能です(すべての被害者がそうあるわけではありません)。

それに対して先のケースはというと、加害者でありながら被害者という難しい立場であり、表だった自助会がありません。みなさん加害者としての自責から、オープンにすることをはばかられています。

でも確実に苦しみはそこにあって、我が身を出たり入ったりしている。ただしそこに他者は絡まない。完全に外に出すことの出来ぬ思いは、せき止められた川のように腐って臭を放ちます。いくら加害者だからってそんな生き方をしていいのでしょうか。

残された者の責任

罪は消えることはありません。喪失感も消えることはありません。とはいえ、いつまでもそこに留まって、暗い顔をして、自分を責めるのが正しい償い方なのかは疑問です。そうやってある意味閉じこもっているのは、本当の意味では罪から目を反らしている気がするのです。

罪を犯してしまったことで自分を責めるのは、善良な民なら誰だってできます。でも罪を受け止めることは、強い人しかできない。
受け止めるのは、めちゃくちゃ勇気が要ります。ある意味で人の命を奪った自分を全面的に受け入れ、それをアイデンティティーとすることですから。人の命を奪った自分に24時間果敢に向き合うことは、自分を責めることより精神力を必要とします。

でもそれ以外生きる術はないのではないでしょうか。
残された者の責任は、犯した罪を真正面から受け止め、同じような事故が起こることのないよう阻止することだと思うのです。

まず第一歩として話す相手を見つける

いきなりそこまで強くなるのはハードルが高いでしょうから、まずは話す相手を見つけるところからではないでしょうか。

匿名でブログを開設して仲間を募るとか、カウンセラー等の専門家に話を聴いてもらうとか。自分の中でグルグルするより頭の中が整理されます。
おそらく今は本当にひとりぽっちで、分かり合える人がいなくて、どうしようもない孤立感にもさいなまれていると思います。

罪の意識、大切な人を失った喪失感、そして孤立感。一つでも重いのに三つなんて、どんなタフな人でも対処できません。
だからまず、孤立感だけでもなんとかしましょう。

小林麻央さんに学ぶ生き方

先日天に旅立った小林麻央さんが緩和ケアの先生からかけられた一言「癌の陰に隠れないで」。この言葉によって、麻央さんは「癌患者というアイデンティティー」が「心や生活を大きく支配してしまっていた」ことに気づきました。
加害者兼被害者の人はどうでしょう?罪の意識に隠れてはいないでしょうか。罪を犯してしまったという空間に自らを閉じ込めることで、本当に向き合わなければいけない厳しさから逃げてはいないでしょうか。

麻央さんが陰にかくれている自分とのお別れを決心したように、罪を犯してしまった空間から一歩外に出ること。それが本当の贖罪ではないかと、思うのです。
時計の針は元には戻らない。どんなに悔いても変えられるのは未来だけです。希望に溢れた未来があるとはいいませんが、責任を持って生きる未来を手に入れることくらいは出来るのではないでしょうか。

最後に、私の想像力が足りず当事者を傷つけるような箇所がありましたら修正いたしますので、コメント欄よりご連絡ください。