私は苦労したのにあなたはしないなんて許せないという嫉妬

私は苦労したのに、あなたはそれを免除されたと知ったとき、どういう気持ちになるだろう?

大方の人は、許せないという嫉妬心にかられると思う。

ルポライターの鈴木大介さんが皮膚の弱い妻の代わりに台所の洗い物をしていることを周りが知ったときの反応をこう語っている。

特に女性から、こんな声を何度も聞いた。

「分かる分かる! 私も同じだったから。私も結婚したばかりのころ、洗い物で手が荒れて痛くてかゆくて気が狂いそうで、いろいろな洗剤を試したけど駄目だった。でも、手をボロボロにしながら頑張ってたら、子ども生んだころからマシになって、今は普通にやれてるよ。いやー、鈴木さんもよくやるよね~。仕事も家事も、大変でしょう? 

ええ大変です。僕の中に、洗い物をやってくれない妻に対しての被害者意識があったときは、こうした言葉にねぎらいの気持ちも感じていた。

けれど、僕自身が色々なことを「やれない人」になった今、そのねぎらいの言葉の背後に隠されたメッセージを、どうしても無視できない。そのメッセージとは

「お妻様は頑張って自分のやれないことを克服しなくて済んでずるい=加害的だ」

というもの。

引用 脳が壊れた僕と発達障害の妻が、最後に皆さんに訴えたいこと されど愛しきお妻様(リンク切れ)

件の女性は、どんなに辛くても水仕事から逃れられることができず必死にやっていたのを、夫に肩代わりしてもらえる鈴木氏妻が許せない。
私も苦労したんだから、お前もしろと。

このような「楽するなよ」という縛りが、女性進出、ひいてはジェンダー問題の足をひっぱっているように感じてならない。
はたして、私が苦労したら、相手も同じ苦労をしなくてはならないのだろうか?

未だに家事をしない私

私はほとんど家事をしない。

ご飯は気が向いたときしか作らないし、洗い物は半分しかしない、草木の手入れも適当、掃除はさすがに汚いのが嫌いだからやるけど、子育ては放棄(←子供がいないし)。
先日化粧品店にいったら、「手がきれいですね」と言われた。
家事をしないのだから、当たり前である。

こんなぐうたらな生活をしていると世間様しったら、主婦の皆様から集中砲火を浴びるだろう。
だが、かりに浴びたとしても、「だからどうなんだ?」って思っている。

代わりにプロ並に風呂の掃除やレンジフードの分解掃除、洗濯ができる。

結局人には得手不得手があるんだから、女性だから○○しなくちゃなんない、というのはとってもくだらないこと、と思っている。
それでも世間はなぜか「夕食を作らないKOMAさんは主婦失格ね」と思いたがる。

世間の代表が母親だったということ

その世間様の代表が母親だ。

実家に帰るとなぜか女性ばかり働かされる。

これは母親が作った価値観だ。
「女たるもの、せわしく働き、殿方の世話をすべし」

あーはぃ。面倒なので母親に合わせてるけど、「アホらし」と思っている。
そんな母はすべすべの私の手が許せない。
「私(母)のように水仕事をすれば、娘の手がこんなにきれいなはずがない。コイツは家事してるのけ?」と思ってることだろう。

ことある毎に、「私(母)は家事頑張ってるアピール」をしてくる。本当に面倒だ。

過去の恨みを未来で晴らそうとする人々

この「私は苦労したのに」という嫉妬は、先代から脈々と継がれていたんだと思う。
だから姑の前のお嫁さんは、自分を地位の低いポジションにわざと置いた。

そうやって姑の過去の苦労と同じくらい、もしくはそれ以上の苦労をしているポーズをすることで姑の嫉妬から免れようとしていたんだろう。

けれど、そんなやり方で溜飲を下げよう(下げさせよう)とするのは、浄化の方法として最低だ。
高貴な心を持つ人は、同じ苦労はさせまい、と苦労を避ける手助けをしてやるものではないだろうか。

現代でも未だ「個」の考え方からほど遠い

「私は苦労したのに」という嫉妬を抱える人は、自分がしてきた苦労は激しく理解する割に、相手がしている苦労にはてんで興味を示さない。

まるで、「ワタシ」がした苦労こそが正真正銘の苦労で、「アナタ」がしてきたその他の苦労は嗜好の範疇みたいだ。

だが人の抱える苦労は、当事者になってみないと分からない。
たとえ表面上軽やかにやり遂げていたとしても、裏でたいそうな気づかいや失敗をしている。

その大変さを推し量ることなく、自らの経験の範囲で事の軽重を図ろうとするなんて、なんと短慮なことよ。

人は自分独自の人生という「個」を背負い、自分だけの生を生きる。
単純極まりないこのことでさえ未だ認められない日本に、えもいわれぬ息苦しさを感じるのは私だけなのだろうか。