性欲と承認欲求はどっちがいやらしいんだろうか?

ーいやらしいー
と聞いてまず頭に浮かぶのは、いわゆるエッチな考えを持つ人だけだろうか?
「いいね」を集めたがる、わざと自己卑下して「そうでもないよ」の否定を期待する、写真に高級品を映り込ませる、というのも該当するんじゃないだろうか?

エッチなだけがいやらしさじゃない。
同じ、いやそれ以上に強力なこの承認欲求についても考えてみたい。

話題にするのが御法度か否か

いやらしいとは

形容詞 嫌な気持ちを覚えさせる(人間の)状態・性質だ。(googleの説明)

らしい。

でも今回ターゲットとしたいのは、嫌な気持ちのうち、「下心」に関するいやらしさ。

貴女は男性がエッチな話しを振ってくると、「下心あるな~」と感じるだろうか?
ほとんどの女性はセクシャルな話には敏感なので、辞書の通り”嫌な気持ちを覚えて”、下心を感じ取るだろう。

その話は職場では御法度。プライベートでもナシという人もいるだろう。

では友人が承認欲求丸出しの話を振ってきたら、「下心あるな~」と感じるか?
ほとんどの人は友人の魂胆を見抜けるので、下心は感じ取るだろう。

だが話題にすることが御法度ということはない。

心の恥部がなくなりつつある

しかし考えてみれば、どちらも「下心」があるのだから、片方は表に出してはダメ、もう片方は出してヨシというのは不公平だ。
下心とは、心より下にあるんだから、ひっそりと秘めるもんじゃないんだろうか?

結局、承認欲求を秘める風潮がないから、人々は「他人の承認欲求を満たすのに付き合わされる」という不毛な時間を過ごさざるを得ない。
SNSの自慢記事にどれだけの人がどれだけの時間、まどわされているのだろう。

それも承認欲求を満たすために、エセ日常を演出するサービスまで、でて来た。
そこまで行って初めて、人々は「心の闇」と銘打ち、やや秘めろよトーンで切り返してきたが、いまだそのサービスは止むことなく、むしろ顧客が増えてるという有様。

こうなると心の恥部なんて存在しなくなるんじゃないの?とすら思う。

承認欲求のいやらしさは怖い

だからといって全ての人が承認欲求丸出しで、自己アピールし出したら、この世は承認欲求を満たしてああげる人不足に陥らないだろうか?
現に今、多くの人の欲求が満たされても、満たされても、尽きることなく湧いてでてきてるわけだから、その総数たるや天文学的だ。

それも性欲のいやらしさは、身体という限界があるので、ストッパーが働くのに対し、承認欲求のいやらしさは、ストッパーが働かない。
なので、いやらしさの悪質さでいったら、承認欲求の方がずっと上。

承認欲求は今後もパワーアップする

昔は大人と言えば、人の話を聴ける人だった。
それが現代、30-40歳の大人が、自分の話を聞いてもらうべくSNSへのアップにいそしんでいる。
つまり、本物の大人が減りつつある。

一億総子ども化。

となると、隠しておかなきゃならんものも、隠さなくなって、分別という概念がどんどん薄れていくと思うな~。
いやらしさ最強の承認欲求。これからもっと我々の中に入り組んで、我々を支配していく気がしてならない。