私の言葉が相手に届いているか?
を考えたとき、ほとんどが上滑りに終わっていることに気づく。
たとえ思いやりをもって、「苦労したんだな」とか「大変だったんだな」と言葉にしていたとしても。
相手を思うことは悪いことじゃない。けれど思い方が違えば、やはりそれは無用の長物になる。
言葉選びを写真の撮影にたとえてみる。
写真を撮ろうと思ったら、まず被写体を決める。次にピントを合わせる。
ほとんどの人は被写体決めをさっさと行う。がピント合わせとなるとどうだろう? 全然できない。そもそもする必要さえ感じていない。
だからできあがった写真は、「撮ってるものは分かるんだけど、で、何を撮影するつもりだったの?」ってなる。
これを言葉に置き換えると、被写体決めが「何に言及するか」で、ピント合わせが「どの視点から見るか」。
話の主旨さえつかめれば、「何に言及するか」は検討がつく。ところがどの視点から見るかという意識が働かないので、自分から見た話をする。
すると相手の時間なのに、聞き手の見た・感じた世界を述べる時間に変わってしまう。
相手は主体を奪われた気になって、話さなければ良かったとプチ後悔をする。
では、相手に話して良かったと思わせるには、何が必要だろうか。
言うまでもなく「ピント合わせ」である。
ちゃんと相手の視点に立って、相手の立ち位置から世界を見渡す。すると、相手の感じたであろう感情がわずかながら分かってくる。
この動作を忘れずにすることで、「共感」を生み出すことが可能となる。
「共感」されると、相手は「分かってくれた」という安堵や、「通じた」という喜びに包まれる。そして「あなたに話して良かった」となる。
そして実はあなたがどの立場で話をしたか、は言葉の違いとなって現れている。
たとえば、相手が介護で苦労した話をしたとしよう。自分から見た話をする人は、「大変だったんやなぁ」と言う。
あくまでも自分から見て介護が大変そうだから、「大変だった」という評価を下した。もし「大変だった」と思わなければ、「そんなの、うちも同じよ」や「それくらいで弱音吐いてどうするの」となる可能性を秘めている。
それが相手の視点に立つことの出来る人だった場合、「大変だったんやろうなぁ」に変わる。この「やろうなぁ」は相手の立ち位置に立って、そこから世界を見渡して、感じたことを噛みしめることで出る言葉。
そこに自分の価値を挟みこまない。相手の感情を味わうだけ。だからけして相手を傷つけることはない。
こうやって文字で書き出すとなんのことはない。けれど、「共感」を示された方は、言葉が心に染みいっていく。
そして、「あなたという存在がいて良かった」につながる。
すなわち、「共感」が自分の存在の肯定になる。
裏を返せば「共感」の作り出せない人は、いてもいなくてもいい。
私の代わりを誰かが務めたってかまわない。つまり、遠回しに自分の存在を否定されたことになる。
人々はその否定に敏感で、「どうせ私なんて…」とひねくれる・落ち込む。
だが、その元凶となったのは、「あなたがどうこう」ではなく、「あなたが『共感』できないから」だ。
つまり「共感力」さえ磨けば、「みんながあなたを求めてる状態」になる。
そのために相手の立ち位置から世界を見渡してみる。
それがどういうことか分からなかったら、質のいいドラマなり映画なりを見て、感動のシーンを抜き出して、なんで感動するのか分析する。
必ずそこには「共感」がある。相手の視点にたって考える人々が描かれている。
「共感」は理性でするものではない。頭をつかって、ウンウンうなるなら、一つでも心が動くシーンに触れることだ。