なぜ、人の話を聞けないのか?

自身を冷静に観察すると、相手との間に沈黙が生まれると、
①自分の話をする
②相手の話を待つ
の2パターンしかないことに気がついた。

一見すると問題ないようだが、「相手に質問する」という選択肢が抜けている。
相手に「しゃべってください。このネタなんてどうですか?」という促しがないのだ。

さらによくよく自分の会話パターンを見てみると、

「(相手の話なんてどうでもいいでしょ。それより)あのね、私の○○が△△したのよ(若干の自慢あり)」という風になっている。

要するに、相手のことにはちっとも関心を持たず、ひたすら自分をどうアピールするのか、もしくは思考停止している。
そりゃ、私に接する人は、この一方的会話スタイルに嫌気が差して、去っていくことだろう。

少し前に父親から電話があったとき、まさにこの一方的会話スタイルであった。
聞き手の意向などおかまいなしに、ダッーっとしゃべる。
「聞く」という行為がまったくないのだ。
この場合の「聞く」とは、黙って聞くというのではなく、積極的にどうなのか聴く」の方。

「もしかして、あなたは○○と考えているじゃありませんか?」
「それは大変△△でしたね」
といった、もっと詳しく掘り下げるであるとか、相手の話に共感を寄せるという、主体である我を消して、相手の世界を一緒に体験する聴き方をしないのだ。

実はこの「聴く」が、人の心を安定させるのに外せない、それはそれは重要な行為なのである。
人は「聴かれる」と、それだけで感情がすぅ~っと軽くなって浄化される。
特に子供は、親が「聴いてくれる」だけで、心の底から守られているという満足感で満たされる。
ところが、親が「聴い」てくれないと、自分を受け入れてくれる場所を見い出せず、不安定になる。

ラッキーな子は学校の先生や親せきの人が「聴いてくれる」ことで、少しはその不安も解消されよう。しかし、「聴ける」大人が圧倒的に不足している現代、それに頼るのは、あまりに賭け過ぎる。

親の成すべき業として「親業」という言葉がある。
詳しくは学んでいないが、親になるにはきっと[衣食住の提供+「子供の声を聴く」こと]が求められる、といいたいのだろう。
この最後の「子供の声を聴く」こと。
まともな親元で育てば、大人になる頃にはすでにその技術を習得し終えているが、そうでない親元で育った人々は、その技術自体を知らない。
そこで親とはどんな要素を求められるのか「親業」という(職業)訓練を通して学びましょう という主旨ではないだろうか。

なるほど、もっともな意見だ。

不完全な親元で生まれた人が世の中にあふれているから、「聴かれたい」人が大勢いて、キャバクラが流行る、若手社員が先輩の過去の栄光話に付き合わされる。
つまり、これは私個人にだけ当てはまる問題ではない。

おそらく友達が出来にくい人全般に当てはまる傾向だろう。
そういうタイプは、一方的に「聴いて」欲しいと暴走する一方で、「聴いて」相手を満足させる術を知らないから、延々と人の愚痴に付き合わされることが多い。
愚痴に付き合ったはいいが、相手からは大切にされることはまずない。
もっぱら相手の感情のゴミ箱扱い。

さて、こんな悪循環から抜けるためにすべきことは何か。
それは、まず、自分が親から「聴いて」もらえなかったことを自覚すること。
想像でいいから、「聴いて」もらったら訪れるであろう感情を感じてみること。
全身に温かいものが流れ込むのが分かるだろう。
「聴く」とは、何にもまして偉大な行為なのである。
その次にすべき行動ついては、いつか書きたくなったときに綴ろうと思う。