重い女や母親の辞め方

「重い」と疎まれ嫌われる女たち。

誠実に生き、正直にあろうとしているのに、気づくと周りに人がいない。温かく迎えてくれる人もいない。
果たして、この生き方は正しいのだろうか?望む生き方なのだろうか?

知らぬ間に寂しい世界の住人と化しているあなたが読めば、モヤモヤしている理由が見えてくるかもしれない。

重いと思われる理由

寂しい人はとかく人を求めがち。家族、親友、恋人、友達といったディープな人間関係にあこがれを抱く。ところが、ディープを求めるが故に相手の個性を認めない。すなわち相手が相手らしくあることを意味がないとする。

相手ならではの考えに耳を傾けず、自分の常識に照らし合わせて、良い・悪いの判断を下していく。それこそが唯一の解あり、理解させることが相手のためと思い込んでいる。たとえ相手が背中を押して欲しそうにしていても、取り合わない。その人だったら出来るんじゃないかと信ずることもない。

そして親友なんだから、子供なんだからと「こうあるべき」を強く押しつける。私が理解されることに執着し、自身が求める理想のつきあい方ができないと相手をなじる。相手が自分を愛してくれるということが分からず、ことあるごとに「愛情を示せ」と迫る。

迫られ窮屈に感じた相手は、あなたと距離を取ろうとする。すると途端に「どうせ私なんか…」といじけた態度を示し、わざと嫉妬を抱かせるような行動に出たり、自殺騒ぎを起こす。なんとしても相手を引き留めよう、自分を気にかけさせようと必死になる。

ーその人ならではの考えが認められず、理想のつきあいをしろと迫られ、逃げることをも許されないー
とすれば、相手のどこに自由があるだろうか。

がんじがらめである。これが重いと言われる理由である。

重い女を辞めるには

「離れないで」と迫れば迫るほど、あなたは重い人になっていく。とすれば、「自分から離れていってしまう」という意識を別のものに振り分ける。

独り立ちしたいという子供に対して、「今は離れる時期。でも時が来ればまた、帰ってくる。だってこの子を育てたのは、なんといっても私なんだから!」と、自分が子育てしてきたという実績に目を向ける。すると自然と子供の独り立ちしたいを推せる気になってくる。

奪われると思うから必死に守ろうとするのであって、十分やったから大丈夫でしょと転換できれば、後は相手に任せていいか、という気になる。

結局、人と人は信頼関係でなりたっていて、私が相手を信頼し、相手なら出来ると思っているからこそ、相手は私を頼り、信じてくれる。だから意識を「相手(もしくは自分)のできる(た)こと」に向けることが、重い女を辞め、信頼を得る方法なのである。