口を開けば、愚痴。とにかく聞いてくれる人がいれば、際限なくそれらを話し続けてしまう、そんな事ありませんか。
話題ならいくらでもあるのに、なぜか話が愚痴に集中してしまう。他の話をしようにも、やはり愚痴をいいたくて仕方ない。
そんなあなたと、
いつもにこやかに話を聞き、口から出るのは相手への賞賛、でしゃばることなく、いいかんじで相づちをうつ
あの人。
何が違うのでしょう?性格なのか、恵まれた生活なのか、
だったら私は無理…。
そうおっしゃらずに。実はある力こそが、この2者を分けていたんです。
愚痴ばかり言う人の内心
愚痴ばかりいうのはなぜでしょう?
嫌なことがあるからでしょうか。はたまたひねくれてるからでしょうか。
私は違うと思います。
「現実はどうしようもない」という気持ちに支配されてるからです。
姑に対する愚痴を言う人は、姑に分かってもらってもらえないという現実をどうしようもないと思っているから、分かってもらえないストレスを誰かに聞いてもらいたい。
会社の愚痴を言う人は、自分で制度を変えられない、上司に認めてもらえない現実をどうしようもないと思っているから、分かってもらえないストレスを居酒屋で仲間と分かち合いたい。
このように「現実はどうしようもない」という気持ちに支配されていると、溜まったストレスだけはせめて、という気持ちが働き、愚痴という形で現れるのです。
つまり愚痴ばかりいうのは、現実は変えようがない、という無力感が原因です。
にこやかでいる人の心の内
にこかやに話を聞くことができるのはなぜでしょう?
いいことばかりが起きているからでしょうか。はたまた気持ちに余裕があるからでしょうか。
私は「現実はどうとでもなる」という気持ちを持っているからだと思います。
姑の話をほがらかにできる人は、工夫して話せば姑が分かってくれないという現実を分かってくれるに少しは変えられると思っているから、いちいち人に話す必要がない。
会社の愚痴を言わずにいられる人は、今の制度がなかなか変えられない、上司に認めてもらえないという現実を、こうやれば上手くいくかもと思っているから、話すとしても「こんなアイデアどうかな?」と提案型になる。
このように「現実は自分次第でどうとでもなる」という気持ちをもっていると、ストレスそのものが溜まらないので、話したいという衝動に取り憑かれずにいられるのです。
つまりにこやかに話を聞けるのは、現実は変えられるかもしれない、という自己効力感があるからです。
自己効力感とはなんぞや?
自己効力感とは、自分が動けば周りにこれくらい影響を及ぼせる、と思う感覚です。
子どもの時にお母さんに誉められたくて、何かを先んじてやったときに、「あらっ!あなたが○○してくれたから、ママはとっても助かったわ!ありがとう」と声を掛けられる経験を重ねると、「自分がなにかやる = 人の役に立てる」 という意識が植え付けられ、自己効力感が増します。
反対に何かを先んじてやったとき、親にスルーされたり、単に「ありがとう」だけで済ませられると、「自分がなにかやる = とくになにも変わらない」という意識が強くなり、自己効力感は増えません。
本人の気質ではなく、親の接し方で、自己効力感は上がりもすれば下がりもする。そして下がった人は一様に納得いかない現実にストレスをためていきます。ですから口を開けば愚痴ばかり。
大人でも自己効力感は上がる?
では、親の接し方がイマイチな家庭に育った人は、一生自己効力感を上げられないのでしょうか?
そこは半分イエスで半分ノーだと思います。このまま生き続ければ、よほどのラッキーに遭わない限り、自己効力感に変化は訪れないでしょう。でも、人生のどこかで自己効力感に真剣に向き合い、人生をリセットできれば、上げられると思います。
それは人との出会いかもしれないし、自分の内面と深く向き合う瞑想によるのかもしれないし、カウンセリングのような外部からの働きかけによるものかもしれない。
いづれにせよ、放って置いてどうにかなるものでないのは確かです。
あの人と私を分ける「自己効力感の高さ」、あなたはこのままにしますか?
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