みんな私から逃げてく~嫌われる人がやってること

「お金を貸してくれ」「食事をおごってくれ」と言ってくる相手、好きですか?

おそらく全員が嫌い、と答えるでしょう。なぜか。タカられているからです。こつこつと貯めた財産を奪おうとするヤツになんか良い印象抱くわけありません。要注意人物認定して、なるべく関わりを持たないでおこう、と思うでしょう。

これは防衛本能です。

同じ理屈で、我々は精神的な何かをタカり、何かを奪っている相手とは、なるべく関わりを持たないでおこうとします。

お金だろうが、精神だろうが、人はタカられるのが大嫌い。では、嫌われてるあなたは、一体なにを、どういう風にタカってしまっているのでしょう?

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自分を垂れ流す人々

話を聞けない人って、けっこう多いです。隙あらば自分の感じたこと・考えたことを吐きだし、自分話にすり替えようとする。そういう人は、相手の聞かれる権利、理解されるチャンスを奪っています。それだけでなく、聞かれる権利、理解されるチャンスを寄こせと迫っている。

この「よーこーせー」という雄叫びに執念を感じた相手は、あっさりと権利を手放すのですが、当然心地のよいものではありませんから、内心「あーつまらないな~、早くこのくだらない話終んないかな~」と思いつつ、「次回から関わるのはよそう」といった決意を固めるのです。

理解されることに執念を燃やす人のタカり精神は、目を見張るものがあります。職場で、近所の立ち話で、友人との集まりで、ずっとずっと話している。そのエネルギーたるや、周囲の生気を全部吸い上げちゃったんじゃないか、と疑うほど。

理解されたいことへの思いはハンパないです。

自分を出さない人々

先ほどとは打ってかわって、話を聞くだけの人、というのもまたかなりの数、います。こちらは、控えめで好印象を持たれるように思うのですが、それは会って3回目まで。会えば会うほど、嫌われていきます。

彼女らは一体何をタカっているのでしょう。

自分を認められることです。黙ってあなたの話を聞いてあげるから、私の存在を認めてね! だって、あなたにとっての一番は私でしょ、と思っています。

本来誰かに認められるのは、棚ぼた的な展開ですが、じっと黙り堪え忍ぶ自分を演出することで、無理にでも相手から「あなたがいてくれて良かった」的な感謝を引きだそうとしている。私の存在意義を、話を聞いてあげることで、確かめようとしている。

自分がここにいていいんだ!という肯定感を得ようとせんがために、相手を使おうとする執念に恐ろしさを感じた人々は、それを察知した瞬間に逃げ出していきます。

自分をひけらかす人々

他にも、説教くさい、自慢したがり、な人々がいます。彼らは自らの力を誇示して、「感心」を誘い、「賞賛」を奪おうとする。

人にスゴイね、と言われて、自他共にスゴい人間になりたくて仕方ありません。だから「自分を垂れ流す人々」同様、立石に水のごとく、しゃべるしゃべる。聞いてるこっちが、お腹いっぱい。

彼らには、どこまでいっても満足がありません。賞賛されても、また賞賛を求め、賞賛がないと不機嫌になる。ある意味、中毒症ですね。

「嫌われる」と決別するためにできること

こんな風にあなたは、私を理解しろ!認めろ!賞賛しろ!という欲を懐にしまったまま人前に立っているので、相手からしたら「こんなに多くは与えられないし、奪われるのもシャクだし、逃げよう!」となるのです。

心貧乏が、貧困に耐えかねて、他人の心に盗みに入ってるようなもんですね。そんな人、誰だって相手したくありません。

じゃあ、タカるのを止めたらいいの?奪わなかったらいいの?というのは、考えるべき内容ではありません。

タカるにはタカるだけの切実な理由が、あるのです。嫌われることに悩んでいるくらいなのですから、いじわるでタカっているのとは違う。

心優しく、繊細なあなたが、なにゆえそのような暴挙にでるのか。それを理解することから、嫌われることとの決別が始まるのではないでしょうか。