本当に支援してくれる人とは、ずっと側にいて四六時中悩みを聴いてくれる人とは限らない。
職業としての支援者は、必要以上に支援の手を差し伸べてはいけない。
どんな問題も、最後責任を取るのは当事者。
支援者がいないと何も出来ない骨抜きにしてはならないのだ。
ちまたにあふれるエセ支援者
芸能人を長期間傾倒させる占い師、終わりなきカウンセリングを施すカウンセラー、子供の代わりに判断をし続ける親。
これらは皆、相手のことを考えているようにみえて、考えていない。
相手の自立を促すという目線が抜けている。
自分がいないと生きてられない状態にするのは、自分がいなくなったときのことを考えていない。
一緒に、同時に、あの世へいくつもりか?
依存させると、こんなにイイことがある!
相手を依存させると、「相手の役に立っている」という充実感以外にもたくさんの恩恵を手に出来る。
金銭を受け取ることもできるし、居住場所を確保出来るし、生活の面倒を見させることもできる。
「あなたのためにここまで支えているのよ」というしたり顔で、実際は骨の髄までしゃぶりつくそうという魂胆だ。
充実感、経済的支援、人手の確保。これがあれば、平均以上の幸せを手に出来る。
支援をするふりをして近づき、その後自分への支援を拡充させるというわけ。
なぜ、本当の支援をしないのか?
支援とはいうまでもなく、相手が相手らしく生きられることを支えることである。
相手が相手らしくいるためには、相手の独立を保証する。
ということは、求められたからといって、相手の独立を阻害するような内容であれば断ることも必要だし、自分が支えられる範囲をわきまえて、領域外のことには手を出さない潔さも求められる。見捨てる勇気も時には必要。
でも、それをしない。わかっていて、しない。
もし相手の独立を保証してしまったら、自分の孤独に向き合わなければならないから。
実は支援者の方が、自分が自分であり続けることが難しい。だから支援者のふりをして、相手を依存させて、なんとか自分らしくを保っている。
皮肉にも、支援者も支援が必要という状態。
支援は厳しい
孤独の淵にたって、役に立つという充実感に飲み込まれず、出来ることに集中するには、孤独を背負う覚悟と、成し遂げようと覚悟した誓いを忘れてはならない。
古代、神事を司る支援者は、俗にまみれることなく、孤独を愛し、孤高を保ち、それゆえ皆から信頼された。
どんな俗事も陥入することのない心を保つためには、「使命」という概念が欠かせない。
まさに命を使って成すべき事を成し続ける。
ありがとうという言葉を期待するでもなく、充実感に飲まれることもなく、支援者として居る時間は支援者に徹する。それが出来てこその支援者だ。
もちろん、24時間そうあれというわけじゃない。
支援者としての顔ではない時間に、他の人と同様の生活を送ることも、支援者としての精神を保ち続ける上で大切な余白の時間。
オン/オフをしっかりと切り分けて、支援者に徹することのできる人だけが、支援者として最後まで居続けられるのだと思う。