こんな些細な言葉で、人は傷つく

人を傷つける言葉ってどんなのだと思いますか?あからさまな侮蔑、排除。そういうのは想像がつきます。けど、それ以外に?、と言われると思いつかないのではないでしょうか。

実は傷つけられた本人でさえも自覚できていないんです。意識するのは、友達ができない、とかパシリをさせられるとか、で悩まされた時。なんで私は芯の強い人間じゃないんだろって。

傷ついた心は、長い時間をかけて、人格を歪ませます。社会に適応しにくい資質を醸成します。怖いですよね。

自分の身近な人が社会に出て苦労しないように、今から家庭で出来る傷つけ防止策というのを考えてみませんか。

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無視

子供って聞いて欲しがりです。耳をふさぎたくなるほど、つきまとって、「あのね…」を繰り返します。忙しい親はとても相手できないでしょう。だから、子供が話し終えると、「あ、そう。」で済まそうとしたり、「ヨカッタね」で終わらせようとします。

すると子供は、「聞いてもらえなかった」という不満といじけた気持ちを抱きます。それでも何度かはトライするけれども、そのたびに素っ気ない返しをされると、「ボクの話は聞いてくれないんだ」と暗い気持ちになって、とうとう「お母さん(お父さん)はボクがキライなんだ」というところまで行きつきます。

幼い子にとって親は世界のすべてですから、相当堪えることでしょう。

大したことない

頑張ったこと、注目されたことを親に報告するとき、子供は「きっと、褒めてくれるに違いない!」と思っています。そこへ対抗心を燃やした親が、そんなの大したことない、と却下を食らわせると、見てもらいたかった気持ちがすぼみます。

頑張っても頑張っても却下を食らうと、一生認めてくれないんだと絶望に似た想いを抱くようになり、自分という存在を本当に大したことのない人間と思うようになります。

私の話にすり替える

先ほどと似たケースで、子供の自慢に被せて、「お父さん(お母さん)の時は~」と子供に勝ち目のないスケールの大きな話にすり替える親がいます。たった数年しか生きていない子供と、何十年と生きた大人が互角に戦えるわけなどありません。

それも熟知した上で私の話に切り替えられると、子供は自分は一生親に褒められないんだな、と無力感を抱くことになります。

傷つけられたらどんな人格になるか

上記3つ(無視、却下、すり替え)の一つ一つは取るに足りない出来事です。ただ、そういった場面に出くわす度、嫌われてる、認められない、褒められないといったセルフイメージをすり込まれますから、学校のようなミニ社会に出たとき、嫌われないように過度に人に合わせよう、社会で認められるように異常に役に立とう、褒められ慣れしてないから自虐でしのごうなどとしてしまいます。

それってまさに自信のない人間のふるまいそのものです。

自信のない人間は、人を使うのが得意な人にすぐに見抜かれます。従って、ミニ社会の中で下層に位置づけられ、人間としてまともに扱われなくなります。だから、友達もできないし、パシリにもさせられるんです。

発しているメッセージを取り違えば傷つく

人が言葉にする以上、伝えたい何かは必ず存在します。しかし我々は存在を無視して、言葉の上辺だけをさらったコミュニケーションに慣れています。これは脈々と受け継がれてきたものだけに、人を傷つけることなど想像の外にあります。

でも思い返してみれば、気持ちがずんっと沈むときって、一生懸命伝えたメッセージがまったく通じてなかったとき、なんですよね。

メッセージの答えに正解はありません。でも辛抱強く考えれば、当たらずも遠からずな答えは出せます。ようは考える手間を惜しむか、惜しまないか、です。

手間を惜しむだけで、人は傷つく、とすれば、「そんなの知らないよ」で切り捨てる問題ではないと思います。とくに我が子がうまく社会に適合して欲しいと思うならなおさら、子の発するメッセージに真摯に向き合うことです。

目で捉えられる子供は輪郭だけです。本当の子供の姿は、よくよく向き合ってやらないと分かりはしないのです。親のコミュニケーションの研鑽の必要性を、強く感じます。