どれだけ話をしても受け入れらた感覚が持てない悲壮感をどうする?

私達、親友だよねー
○○ちゃん、大好き♥

そんな言葉が飛び交う若者たち。
教室でおしゃべりし、部活で共に汗を流し、休日は一緒にショッピングにでかけ、夜はLINEで情報交換。

いつでもどこでも一緒に居る、ワタシの友達。

でも、たまに不安になる「この子はワタシを心から受け入れてくれてるんだろうか?」

大勢に囲まれていても独りぽっちという感覚

友達のいない人間にとって、大勢に囲まれてる人はうらやましい。誘ってくれる人がいる、一緒に笑ったりはしゃいだりしてくれる人がいる。それだけで、贅沢に感じる。

ところが、いつも友達に囲まれて、楽しそうにしていても、「寂しい」とつぶやく人がいる。話しても話しても、なにか、こう、心でつながってる安心感、がない。友達の多い自分、お誘いの多い自分、傍から見たらなにを不満に思うのか?と不思議がられるかもしれない。けど確実に、独りぽっち。

その感覚は、賑わいの時間が多ければ多いほど、鋭く浮き上がる。

本当の意味で、「ここにいて大丈夫」という安心感を持てない。なぜなんだろう?

言葉を失うということ

それはきっと、言葉が言葉として機能していないからだ。

誰に受け止められるでもなく、表面をさらっとなでていくだけの言葉の羅列。そこには、人と人をつなぐ役割はない。さらさらしたそれで、どれだけワタシの表面をなぞられても、ワタシに居場所は生まれない。

そしてワタシも誰かの居場所とはなり得ない。ただただ言葉を流し、流され、の応酬。相手への想いがない。あるのは、ワタシ同士の思いつき。

その思いつき、取りあげてしまったら、あとにどんな言葉が残るだろう?







なにも、残らない。真っ白。

失ってから生まれるものもある

噂話も、愚痴も、感情を吐くことも、頭に浮かぶことみーんな捨ててやったら、ぐっ………ってなる。

口は開けられる、音も出せる。でも何を言っていいか分からない。これが言葉が生まれる前の瞬間。この時間こそ、大切だと思う。ずっとずっとダラダラと話して、話すことが当たり前になって、浮かんだら口から出てるの繰り返しの中で、私達は本当に口に出すべき言葉と、出さなくてもいいの言葉を選別する努力を忘れてしまった。

忘れただけでなく、選別のための余白を作ることさえ、思いつかない状態に陥ってしまっている。

だから黙ってみる。黙って、たーんと余白を作る。

しゃべりたくなったら、自分としゃべる。独り言でも、ノートに書くでもなんでもいい。他者に聞かせることなく、ただただ自分と向き合う。するとだんだん、外に出していいものと、中に入れておいたほうがいいものが分かるようになる。

言葉の分別が付くようになる。

話すことの意味

音に出して、誰かに聞かせる、ということは、聞く誰かがそこに要るということ。

では、その誰かを意識して、私達は言葉を選んでいるだろうか。
むしろ、思いつきを消化させたくて、相手をゴミ箱に見立てて、要らぬものをポイポイ捨ててはいないだろうか。誰のための言葉であるか、といえば、100%自分がスッキリするためのだけの言葉。

相手にとってどんな意味があるのか、相手にとって助けになる言葉なのかーを考えずに吐く言葉は、相手を認めたことにはならないし、自分が認められたことにもならない。たとえそれが最新の情報だろうと、イケてる態度だろうと。

話すことの意義の一つに、自分の思いを伝える、がある。自分が心から相手のことを思えるとき、自然と自分の言葉の中に相手の居場所が作り上げられる。それはもしかしたら一瞬かもしれない、たった一度かもしれない。けれど、確実に相手を強くできる。

このまま話し続けてもいい

なにも考えず、思いつくままおしゃべりするのは楽しい。そこそこ盛り上がるし、あっという間に時間は過ぎるし、充実したように見える。でも、それだけじゃ、心に漂う独りぽっち、という悲壮感をぬぐえない。

それでもよけば、だましだまし生きればいい。人生に正解などない。自分がそれでいい、と決めたなら、それが正解。

そして正解と思えなくなったら、そこでおしゃべりはストップ。言葉を見返してみることだ。なにげなくいったひと言。本当にその表現でいいんだろうか?と。

自分に聞いて、自分で答える。それを繰り返す内に、言葉とはなんぞや、なんのために使うのが自分の心に正直なんか、が徐々に明らかになっていく。

言葉には、それくらい丁寧に接するのが本来のあり方ではないか、と私個人は思う。