なぜがさつなオンナは嫌われるのかの考察

がさつに関して、こんなことを書いたことがあります。
がさつだからって悩むことない!策はある - 心の流れBlog

ここから2年が経過し、ナント、私ちょっとがさつじゃなくなったんですね。何が変わったんでしょう。興味のある方は読んでみてね~★

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丁寧な私の出現

以前の私は、扉はガンっと締める、足音はバタバタする、モノはゴンっと置く、袋はぐちゃって収納する、それはそれはがさつ極まりない人間でした。ところが、ひと月ほど前から、そっと扉を閉め、足音はしとしと、モノはフワっと、袋はピチっと収納するようになったんです。

自分でも驚いてます。

自分の中で何が起こったのでしょう?振り返ってみると、自分の確からしさが増したように思います。以前は、人に認めてもらわなきゃいけないという気持ちがあって、ひどく焦っていたせいか、見えてる範囲がとても狭かったのです。それが、自分が自分でいいんだ、という感覚が増すにつれ、焦りが自然と消えていき、モノとモノの接合点に意識を集中できるようになりました。

たとえばコップとテーブルの接合点をじっと見て、フワっと置けるようになった。

きっと、コップなんてどう置こうともそこまでのものでもないと思います。でもフワっと置くと、”なんか私ナイスな人じゃん”といった肯定が生まれるのです。

諦めから生まれた境地

このような変化が生まれた背景には、理解されること・受け止められることへの諦めがありました。口癖のようになってる言葉で、ちょっと表現はアレですが

「お前の価値感クソ食らえ」

です。要するに、「『私の価値感など、だーれも気にしておらんのだよ』って理解せぇよ」と自分に言い聞かせて、やっとその言葉の意味を咀嚼できるようになったということです。

それまでの私は理解されないことに腹を立て、自分をかわいそうな人扱いしていました。24時間自分に意識が向いていますから、コップとテーブルの接合点など、どうでもよかった。となれば、当然ゴンっと置いちゃうわけです。

それが意識の束縛が解かれて、周りが見えるようになったとき、現れた景色は、いつもの風景であっていつもの風景ではなかった。いろんなモノが自分の役に立つべくその場にいてくれて、だからそれを粗末に扱うなどやってはならんのだな、というモノとの共同体生活を身近に感じることが出来るようになったのです。

これは言うなれば、モノと私の対話の始まりであり、モノという意思を持たない対象にも、敬意を持つことができたという成長の証です。

がさつを通じて我々が見ているもの

そこに対話があるからどういう接し方がベストなのか、を何度も考えられ、よりよい方向へと流れる。これはモノに対しても、人に対しても同じです。

自分とは異なる価値感を持つよく分からない存在である他者に対して、あーなのかな?こーなのかな?と対話を重ねることで、お互いのあり方がよりベストに近づく。それ即ち、心地の良い関係です。

そういうのに因果をどことなく感じている我々は、がさつな人の中に対話力のなさを見て、「この人はないな」と判断しているのです。とくに将来子供を育てる性(とも限らん気はするが)である女性に対しては、厳しくそれを備えているかが問われます。子育ては、それこそ対話の連続で、対話力に欠けるということは、家庭内が荒れることを意味しますから、なるべくそういうの排除しようという意識が働きます。

ですので、がさつなオンナが嫌われる理由は、一緒にいると将来家庭が荒れそうだから、と推察します。

でもね、がさつを何とかしたいと思ってる独身のみなさん、別に落ち込むことはありませんよ。
適切な対応をすれば、がさつを治すことは可能です。かつての私がそうだったように。希望を捨てず、自分の中のがさつを後押ししてくる心をよーく見てあげてください。