放置子は大人になっても鬱陶しがられる

放置子という言葉をご存じでしょうか?放置子とは、親から関心を向けられず、放っておかれている子のことです。スマホやゲームに夢中な親の横でポツンと置かれている子、危ないことをしてても注意もされない子、やってはいけないことをやっていても気づかれない子、を想像していただければ、なんとなく分かると思います。

そうやって放っておかれた放置子。単に子供時代不遇だったね、で済めばいいのですが、生涯鬱陶しがられる存在として生きていくことも珍しくありません。親に関心を向けられないだけでなく、誰からも振り払われ、冷たあしらわれ、眉をひそめられるとしたら、こんな哀しいことはないでしょう。

もし今これを読んでいるあなたが、人の輪から弾かれてる、と感じるならば、過去を振り返って、一から生き直すことを考えてみてはいかがでしょう。

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幼少期放置子が鬱陶しがられるメカニズム

放置子は自分の置かれた状況に満足していることは、まず、ありません。親に関心を払われなければ、別の第三者に関心を払われようと画策します。周囲にいる大人たちに話しかけ、注意を引きつけようとします。

たとえば子供が集まる児童館で、我が子の様子を見守る母親に、「あのね、ぼく、○○が出来るんだ!」と声を掛けます。「あら、すごいわね。」と大人が相手するやいなや、畳みかけるように、次へ、また次へと話をします。

すると、どうなるか。
面倒くさがられます。「あっちへいって遊んでおいで」と突き放されても、ひるむことがありません。そこであまりのしつこさに耐えかねた母親に、「私は○○のママなの、あなたも自分のママに構ってもらいなさい」と諭されるのですが、今度はそれに腹を立てて、○○ちゃんを攻撃したり、排除しようとします。その様子に慌てた母親は、ものすごい形相でその子をにらみつけ、我が子の手を引いて、その場を後にするのです。

こうやって、放置子は鬱陶しがられます。

青年期放置子が鬱陶しがられるメカニズム

少し成長すると、どうなるでしょう。

たとえば、少年期・青年期。学校で気の合う友達と出会います。最初は、部活も一緒、授業の移動も一緒、修学旅行や課外学習も一緒で、満足のいくスタートを切ります。

しかし時がたち、友達は新しいコミュニティーを形成します。別の友達と遊びに行ったり、好きな芸能人で盛り上がったり、互いの家を行き来したり。それを見て、「私以外の人と仲良くするなんて許せない」と嫉妬心が燃えたぎります。そしてある日、友達を呼び出し、「私と○○ちゃん、どっちが大事なの?」と詰め寄ります。どっちも選べない友達は困惑し、一方でこれほどまでに執着してくる相手に恐れを抱いて、「そんなこと言うなら、つきあえない」と去っていきます。

納得のいかない放置子は、自分の扱いに理不尽さを覚えて、SNSなど、ありとあらゆる手段を使って、相手に近づこうとします。

するとどうなるか。
本気で嫌われます。話をするどころか、目を合わせてくれなくなります。傍にいくと、全力で逃げられます。なんなら、人を立てて、「あの子(友達)には、二度と近寄らないで。本人が嫌がってる」と注告されるところまで行き着きます。

こうやって、青年期もまた、放置子は鬱陶しがられます。

壮年期放置子が鬱陶しがられるメカニズム

壮年期・中年期はどうでしょうか。

会社で部下も出来、マネジメントする立場に置かれます。悪い査定をされたくない部下は、業務中は放置子の話を根気よく聞いてくれます。時には持ち上げてくれることだってあるでしょう。やっと自分の価値を認めてくれる場が出来たと喜ぶ放置子は、いい気分になって、次から次へと自慢話、説教話、をします。それが部下のためになる、喜ばれていると信じているので、プライベートでも関わろうと、飲みに誘います。

するとどうなるか。
全力で断られます。おごるといっても相手は首を縦に振りません。ついには「飲みの誘いは勘弁してください」と言われてしまいます。裏で、「あんな上司と飲みたいやつなんていない」と吐き捨てられながら。

こうやって引き続き、放置子は鬱陶しがられます。

高齢期放置子が鬱陶しがられるメカニズム

高齢期はどうなるでしょうか。

社会的繋がりもなく、寂しく独りぽっちで暮らします。たまに様子を見に来る民生委員、スーパーで試食を勧める店員、偶然再会した同級生を捕まえては、話をしたがります。相手は忙しいですから、ある程度聞いたら、終わらせようとします。独りに戻るのが寂しくて仕方ない放置子は、なんとか話をつなごうと必死になります。

必至になればなるほど、相手の笑顔は消えていって…。でも、そんなことにも気づかないほど一生懸命身の上話に没頭して、ついには相手の堪忍袋の緒が切れてしまい、「次の用件がありますので、失礼します」と去られてしまうのです。「こっちだって都合があるんだ。いい加減にしろ!」と、内心毒づかれながら。

やっぱり、鬱陶しがられてしまいましたね。

今できる事はなにか?

子供時代~高齢期にかけて、一貫して鬱陶しがられている、それが放置子の運命です。手を打たなければ、ただただ嫌われ、つまはじきにされ、置き去りにされる人生です。

やはり、三つ子の魂百まで、ですね。

運命だから仕方がないのでしょうか。鬱陶しがられたまま人生を終えなくてはならないのでしょうか。自分には人を惹きつける力がないんでしょうか。

そうですね。そうなんでしょう。それでいいんだと思います。

今できること、それは現状を受け入れることです。みにくいアヒルの子が白鳥を目指しても、しょせんは無理。なのに、白鳥になれないことを怨んで、何になるのでしょう。みにくいアヒルの子には、みにくいアヒルならではの生き方があります。

自分らしく生きれば、それでいいんです。自分らしさの立脚点は、今置かれてる状況をどれだけ客観的に見つめられるか、です。ですから、「放置子(である自分)は大人になっても鬱陶しがられる」という認識を、感情的にならず、じっと見つめてください。

その先どうしたらいいかは、いずれお話し出来たらと思います。