自分の中の差別意識を問う

「あなたは差別をする人ですか?」

そう訊かれたらほとんどの人は「いいえ」と答えるだろう。けれど私はあえて「はい」と答えると言いたい。だってとても差別的なモノの見方をするから。

「平等とか慈愛とかが大事」とか言っていても、本音ではけ偏見にまみれたキタナイ奴である。けれども、自分を差別的だと受け入れるからこそ見える事実もあるんじゃないだろうか。

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自分の中に堂々と居着く差別意識

私は学歴が平均より高い。そのことで、学歴の低い男性に言い寄られると頭の中で「自分の立場わかってんの?」と思っていた。私にふさわしい人は、私と同等の学歴、ないしはそれ以上と思い込んでいたのだ。

その一方で、「こんな人につきあえる相手と思われていたんだ」というショックもあった。「賢い人」という自分がひどく汚されたようで、人としてランクが下がったように思えた。あんなにも必死で勉強したのにこの程度だと突きつけられることが我慢ならなかったのだ。

でも悪いのはアプローチしてきた男性ではない。私のランクはこれくらい、という自己意識の問題だ。

そしてもう一つ。
私はある程度運動が得意だ。だから運動の出来ない男性をオトコじゃないと見下すクセがある。私にふさわしい人は、一緒にスポーツが楽しめて、そこそこ運動神経のいい相手と思い込んでいた。

あまりにも運動の出来ない男性を周囲に紹介するのは恥ずかしいと思っていたし、「そんな人からしか選べなかったの?」と蔑まれるのがいやだったのだ。

でも悪いのは男性ではない。私の運動神経はこれくらい、という自己意識の問題だ。

「私ってこれくらい」という意識が、それに満たない相手を無意識に遠ざけ、斬り捨てていた。

「差別」とは何か

「私ってこれくらい」という意識の高さから、同等かそれ以上の相手を求めるのは、私の評価は私のパートナーで決まるという思い込みからだ。能力の低い相手と組みになれば、それだけ私の能力も低いと見なされるに違いない。

けど、本当にそうだろうか?私の能力は私固有のもので、パートナーがどうであれ、独立して評価されるべき。それに私が私の能力を認めていれば、周りの評価など、一笑に付すこともできる。

しかし過度に周りの目を気にし、低く見られることを嫌い、「同じ扱いなんてまっぴら」と反射的に斬り捨てて、なんとか我が身を守ろうとしている。それを保身と言わずして、なんと言おう。

区別と差別は違う。保身などという思惑を挟まず、合理的にものごとを仕分けていく区別は、淡々としていて無駄がない。その潔ぎよさは、見ていて清々しい。一方、ネチネチと誰かを痛めつけたり、極端に偏った物の見方をした差別は、余計なものがべっとりとまとわりついた鬱陶しさを伴う。

そんな鬱陶しさを感じさせる差別は本来不要なものだ。

それでもなくならないことは、それだけ人々が他人の目を気にしていることを表す。

周りの目ばかりを気にして自立していない人々が、周りから下に見られないように排除という強行をとったのが「差別」である。つまり差別とは、心の弱い人間のみせかけの剣である。

なんとも情けないあり様だ。へっぴり腰で剣を構えている自分を反省しよう。