なぜ、そんなに死にたくなってしまうのか?

2017年度(2017/4/1~2018/3/31)の小中学校と高校から報告があった自殺者数は250人にのぼったのだそうです。1クラス40人として、6クラス分の子が自ら命を絶つ。とても哀しいことです。

子供だけでなく大人も職場でのイジメや、就職・転職の失敗によって命を絶つ人が後を絶ちません。

誤解を恐れずに言うなれば、死ぬ・死にたくなる病というのは、確実に蔓延しているということです。

この事実を突きつけると、人々は強い拒否反応を示します。「死ぬなんて考えるなよ」「縁起でも無い」といって、目の前の事実を葬り去ろうとします。

けれども、死にたいという気持ちはそこに確実にあって、斥けられればられるほど、より鮮明にその存在が増してくる。

今、これを読んでいるあなたや、あなたの大切な人も死にたいに取り憑かれた一人なのでしょう。だったら、正面から向き合いたい、というのがこの記事の主旨です。ほんの3分でいいです。「死にたい」に向き合ってみませんか。

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死にたいのきっかけは意外とぼんやりしている

「何がきっかけで死にたい」と思ったのですか?と問うと、はっきりコレ!と言える人は少なく、なんとなく気づいたらそんな気持ちになってた、という人が多いと感じます。

そんなにひどい生育環境でもない、衣食住に事欠いていたわけでもない、むしろ教育熱心な親がつきっきりで世話をしてくれていた、周囲より裕福な暮らしをしていた、など「恵まれてる」という認識です。

当人の表面をどれだけさらっても、「死にたい」と強く思わせる何かは、発掘されません。

積み重なりが死にたいを誘発する

ただ、一つだけ特徴があります。心が傷つく経験を、何度も繰り返してきた、ということ。たった一つのすり傷なら、数日放っておけば治ります。でも治る前に、また同じ所をひっかかれると、痛さが倍に感じられるし、治りも遅くなります。

そうやって何度も何度も傷つけられると、いずれ重篤な症状を引き起こすのは、身体と同じ。心にも自己治癒の限界はあります。限界を超えて傷つけられると、嫌気が勝って最終的に肉体も意識も滅ぼしてしまえ、という自暴自棄が発動します。

死にたい人と死にたいと思わない人の違いはなにか?

一方で死にたいと思わない人もいます。彼らだって同じように、心が傷つきます。ただし傷つく頻度が違います。傷ついたら、引き続き傷つけられるのではなく、手当されます。傷つきと手当が交互にやってきます。

手当とは具体的には、誰に「分かってもらう」ことです。じっくり話を聞いてもらって、「そうか、そんなことがあったんだね」と共感してもらう。こうすると幾ばくかは安心でき、”どうすれば、事態を避けられたか?”といった方向へと意識が向きます。

誰でも傷つけられるのは辛いけど、傷つけられる度に、考える機会を得ることができれば、それだけ世渡り上手になれる。だからある程度成長したときには、誰も共感してくれなくても、傷つく度合いを最小限に抑えられるようになり、死にたいとは思わずに生きていられるようになるのです。

死にたいを排除しないで生きる方法

「分かってもらう」体験というのは、我々が思う以上に、救われる体験です。自分を縛ってきた想念がさーっと解けて、ここにいていいんだ、誰かにやさしく包まれる安心がある、と思えるところにシフトする。

それはもう見事な感情の解放です。

解放されることを以て、心を立て直すことができる。そして、「分かってもらう」ことは、なにも誰かにしてもらう必要はありません。自分の中にあるもう一人の自分で十分です。

現状認識を改めましょう。すでにある傷は、これからもあり続けます。ならば、”この傷と共に生きる、一生の友なんだ”と思ってみるのです。さらには傷のせいで”死にたい”と思ったとも。”死にたい”は当たり前で、なんなら”この状況に置かれたら誰だって死にたいって思うさ!”という気持ちで。

すると、”なんだ、自分の「死にたい」ってかなり普通じゃん” と思えてきませんか。

身近な存在である自分が、「分かってあげる」と少しだけ強くなれた気になるのです。

人はそうやって、立ち直っていくものなんです。