無理に共感なんてしなくていいよ。疲れない話の聞き方とは?

人の話を聞きましょう、って促されると、ある思いが頭をもたげてきます。それは

ー私だって辛いのに、なぜ話を聞かなきゃ(受け取らなきゃ)ならんのだ?ーという理不尽さ。すでにある重しの上に、さらに重しを置かれた気分です。

人は大事で、私は大事じゃない?人は救われて当然で、私は使われて当然?私のことは誰が救ってくれる?

どんだけ考えても自分だけが貧乏くじ引かされているみたいで、納得いきません。かといって、寂しい私の相手をしてくれるメシアが現れるわけでもなく…。独りぽっちが嫌ならば、話を聞いてあげて、重しが増えていっても耐えるしかない、そうは思っていませんか?

自分の感情を支えるだけで精一杯、相手の感情に手を差し伸べる余裕なんてありません。ならばどうしたら良いでしょうか。

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共感の弱点はどこにあるか

世の中には、共感できることと出来ないことがあります。それは置かれている立場と大いに関係があって、不倫している側なら不倫している芸能人の肩を持ちたくなるし、そうでないならばその芸能人を批難したくなります。

今の自分を擁護する内容なら共感できる、脅かされる内容なら排除したい、ものなのです。

つまり共感は、同じ価値観の間でしか成立しない脆弱さを孕んでいます。

共感以外の方法はあるか

では、共感する以外の聞き方はあるのでしょうか。聞き手が脅かされず、脅かしてくる相手を封じるわけでもない、第三の方法。

そこでもう一度立ち戻って、「話を聞く」とはなにか?を考えてみます。「話を聞く」とは、文字どおり「聞く」わけですが、「聞く」のは、語られる言葉ではありません。「聞く」のは、発せられる言葉を言わさせた感情(ここでは原感情ということにします)です。

思うところがあるから、言葉を発するのであって、語られる言葉はただのヒントです。原感情に触れられてこそ、思いを汲んでくれた、と人々は感じるのです。

ただし原感情は容易に姿を現しません。じっくりと言葉を聞いてヒントを積み重ねていって、クイズ番組でいえば、ヒント3くらいまで出たときに「あっ!あれだ!」と思いつくように、急に天啓が降りてくるのです。

この状態に至るためにできること、それが「対峙」です。なんの価値感も差し挟むことなく、ひたすらにその言葉の奥にある原感情に目を向けようとし続ける。それが、根底的な人と人とのつながりを生みます。

対峙の優れた点

「対峙」は共感と違って、自分の価値感に左右されることはありませんから、ありとあらゆるところで、力を発揮します。全く異なる価値感の相手であっても、心を合わせていけます。

そして、もし天啓が得られなかったとしても、原感情にフォーカスしたという点において、相手に誠実であったという事実を残します。

分かってくれる人を求める人の渇望感は、分かってくれる人の存在以上に、分かってくれようとする人の存在を求めています。ですから、たとえ分からなかったとしても、分かろうとしてくれたことは、なんらかの形で勇気を与えるでしょう。

それは、捨てられ、斥けられてばかりの世の中で、拾おう、救おうとしてくれた一筋の光だからです。

人は皆、孤独で独立している

誰でもみな孤独です。延々とニコイチ(二人で連れ立っていること)、サンコイチ、でいられることはありません。そして、それがまた、個人の強さとしなやかさを生む原動力ともなりうるのです。

一人一人、自らの足で立ち、自ら行き先を決める賢さを手にしています。ただ、ときどきどうしていいか分からなくなることもある。そんなとき、答えを示してくれる相手ではなく、自分の中にある可能性を信じてくれる人がいれば、いくらでも体勢は立て直せる。

その一助として、「対峙」はぴったりです。共感のような合体感ではなく、個々の尊重をベースとする考えは、心地よい冷たさをともないながら、自らが自らを信じようと思える強い内的動機を発動します。

誰かによって立て直されるのではなく、自らの手によって立て直しできたとき、人は確信を持って自信を手にします。だから、孤独はめちゃくちゃ大事です。孤独あってこその人生です。

される方もする方も大した利を手にしない共感は今日限りでおしまい、関わった人すべてが成長できる対峙を、これからはしていきましょうね。