こういう差別だってある

「あなた作る人、ボク食べる人」
こんな広告に対し、女性から猛反発が出たことがありました。

これは言うまでもなく女性が作る側であると固定しています。

しかし、女性は食べるけど男性は食べないとか、その逆はないのだから、食べる人が作るというのは当たり前中の当たり前。
食べるだけでOKなんて理論、通りゃーしません。

ただ生活の中を見渡すと、役割の固定はそこかしこに見られます。

「誘う」「誘われる」も
「もてなす」「もてなされる」も
「世話する」「世話される」も
「話題を提供する」「聞き役になる」も
だいたい役割が固定しています。

もちろんそれで当人同士が満足していれば、外野がとやかくいうことではありませんが、おおよそ負担を強いられる側はなんらかの不満を抱くものです。
影で「ほんと~気が効かないんだから」「たまには代わって欲しいよね」といっているに違いありません。

つまりどんな人間関係も、固定した状態は存在せず、流動的であって然るべきなのです。
でも現実は不満を心の底にたたえたまま、固定の状態が明日も続く。

これは差別というのではないでしょうか?
差別というのは、公平ではないということです。
どちらかが負担を強いられることは、公平とはいいません。

自分が嫌ならば、声を上げなくては。
自分が陥ってしまうパターンから抜け出さなくては。

「自分がない」からいつもワンパターンの相手の出方に対し、貧乏くじ引くような役割を押しつけられる。
無理に相手に反発しろとはいいませんが、せめて自分を持ちましょう。

静かな主張(ケンカ)ができることは大人としてのたしなみです。
差別を差別のまんま是認してはいけない。