恋愛とはなにか2

ずいぶん昔に書いた恋愛とはなにか1の続きをやっと書こうと思う。

 人は考え方が皆異なる。だからこそ一緒にいることが刺激になるのだ。

しかし、相手のことを自分と同一視したり、全く別の価値観だからと切り捨てていては
長期にわたる人間関係は構築できない。

片思いの段階を経ることで、相手の価値観を想像するという経験をすることは
以前述べた。想像するためには、情報が必要だ。
相手の言葉、しぐさ、いつ喜んだかなど、とにかく相手を観察することで、現実に
なるだけ即した想像ができる。
実はこの「観察」という行為は、その後の二人の関係を保つ上で、非常に重要な要素
であると、私は思っている。

思いが通じるまでは、まるでストーカーか!というくらい、相手のことを観察する。

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××さんとお話ししていた。甘い物を食べると表情がゆるむ。
日焼けした所を見ると、海にでも行ってきたのかな?
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ところが、思いが通じたとたん、観察を止めてしまい、代わりに、「言わなくても
私(オレ)のこと分かってよ」オーラをだす。

まるで手のひらを返したような豹変ぶりはなんじゃそりゃ?である。

もう一度繰り返すと、人は考え方が皆異なる。
だから、つきあうことに合意したからと言って、相手の考え方がすべて分かるように
なることは、ない。
だからつきあう前もつきあった後も、結婚する前も結婚した後も、観察という行為を
さぼってはならない。

観察なくして、相手のためを思って起こした行動は、結局自分の自己満足でしかない。
私のケースだと、配偶者は私に対する行動のすべては、「自分だったらどうするか?」
なのだそうな。
自分だったら誕生日に祝って欲しいか/自分だったら病気の時看病して欲しいか/
自分だったら結婚当日はどうしていたいか/。
それらは、配偶者のものぐさな性格も手伝って、祝って欲しくない/病気は寝れてば
治る/婚姻届出せば終了/という結論になったらしい。

「自分だったらどうするか」の考えの前提は、配偶者の考え方==私の考え方なのだ。
でも、二人の考え方が異なるのだから、この前提条件自体が大きく間違えている。

ここで挙げたのは単なる一例に過ぎないが、自分と他者を分離して考えることが
できない人は、日本全国に蔓延しているのではないかと思う。

人は、お互い異なるからこそ、一人一人が尊いのである。同じだったら、片方抹殺
したって、影響ないでしょ。むしろ無駄飯食って、CO2排出してるくらいなら、処分した
ほうが環境のためにもいい。
でも、実際違う。一人として同じ人間はいない。だから失ってよい命など存在しない。

「人は殺してはいけません。」
昨今、この理由が分からない人がいるが、一人一人が違う考え方をもって、世の中
に存在し、違いを前提にわかり合おう、助けあおうとするからこそ、どんな複雑
な問題にも対応していけるのではないか。
皆で問題に対峙し、解決したときに思うことは、誰一人欠けても、このゴールには
たどり着けなかったということだ。

人は存在しているだけで、価値があるという。そこをもう一歩踏み込んで、人は
考えが違うけど、違いを前提に英知を分け合えるからこそ価値があると考えて
みてはいかがだろう。個性(違い)とは、自分と他者に多様性をもたらすためにあるのだ。
けして、自己を主張するためだけにあるのではない。個性がある上で、人のことを観察
し、人の考えをも取り込める人こそ成長できる人なのである。

なんか最後人間論みたいになっちゃった・・・。
恋愛が難しいのは、突き詰めれば「あんたってどう生きてるのよ?」って問いかける
行為だからでしょうね。