比較の意味が分からない

ビジネスにおいて、選択をせまられたとき、候補となる対象を比較するのは
当たり前である。
一方日常生活において、人の優劣を比較することに、何の意味があろうか?

AちゃんよりBちゃんのほうがかわいい。

お兄ちゃんより弟の方が、成績がよい。

このような比較は家庭や学校において、多く行われている。

最近小学校では、徒競走で順位をつけないのだそうな。
皆が公平に扱われるべきだという理念の下、順位などという邪険な存在は排除
してしまえということらしい。

が、それもまた意味があるのだろうか?と思ってしまう。

比較をする理由も、比較をしない理由も分からないでは、私はバカである。

私は意味のあることにだけ比較を用いればよいと考える。
たとえば先に話題にした徒競走。
これは順位をつけるべきだと思う。
なぜなら、日本は競争社会であり、その中で勝ち抜いてこそ、地位や経済力が
手に入る。小さいときから競争を知らなければ、勝ちたいというモチベーションを
持つことや、負けたときに悔しさなど大切な素養が身に付かない。
学校という社会の中にも着実に競争社会があるという事実を知るために、是非
順位はつけて欲しいものだ。

一方、成績やかわいらしさについては比較を必要としないと考える。
成績については、実は徒競走とさして変わらないので競争させればいいという
気もする。しかしながら、徒競走と成績では人生における重みが違う。
今も昔も日本は学歴社会だ。
成績がよいという一点が満たされれば、足がおそくとも親を含めた周囲は気にしない。
逆に足は速いが成績が悪いということをヨシとする親は少ない。
成績とはそこまで子供の評価を左右するパラメータであるからこそ、比較対象から
はずずべきだと考える。
かわいらしさについては、天が授けたものゆえ、特に子供においては、比較から
はずした方がよいだろう。

子供だって敏感だ。
外野から、人生を大きく左右する成績のことや、容姿のことを比較されるのは、
心が苦しいと思う。
子供が生きていくうえで必要な競争力を身につけるための比較と、自分らしさを保つ
ための無比較の両方をうまく使い分けて、子育てをすれば、子はいずれ立派な華を
咲かすことだろう。