人の不幸は蜜の味

私は性格悪いから、人が不幸になると、ざまぁみろみたいな気持ちが芽生える。

でも何でそんな風に思うんだろうと疑問に思い、掘り下げてみることにした。

まず、私は自分を不幸な人間だと思っている。

他者が幸せそうにしていると、自分と較べてしまう。そして落ち込む。
ところが人が不幸になると、なんか同じじゃーんと親近感を覚えて、うれしくなる。
そのうれしいとは、「不幸は自分だけじゃないんだ」という安心感。

同じ境遇の人が集まって、自分の不幸を話すとき、別の人が話しているにもかか
わらず、まるで自分のことのように感じることがある。
それぞ、THE 共感。

共感は人に仲間意識を芽生えさせる。仲間意識が芽生える瞬間、一人じゃない
と孤独感から解放される。
つまり人が不幸になると、自分の孤独が解放されるという図式。

ところが人間には良心なるものがあって、人の不幸を喜ぶなんて、不謹慎じゃ
ないかって思う心もある。
だからこのような気持ちを抱く、邪なる自分を素直に受け入れたくない。

遡って、そもそも自分が不幸だと思っているからこそ起きる親近感が原因だと
したら、なぜ自分が不幸と思うのかを探ってみるのも、また一考。
不幸ってなんだべやと思ったとき、私の心に浮かんだのは、
「自分の望む姿と実際の姿が違う状態」ということ。
私には外の社会から見たら、恵まれている要素が大きい。
ところが、要素を私が強く望んだかというと、親が世間体のために望んだに
過ぎない。私はただ親に認められたくて、たくさんの要素を自分の中に構築した。

ところが、いつまで経っても、親に認められたという感覚が持てない。
結果は出るのに、プロセスがヘン。
そもそもKOMAが求めていたのは「愛されること、認められること」だったので
その分は全く満たされていない。
だから自分は足りないという感覚に飲み込まれ、不幸と感じる。

その不幸は、どんだけ他者を頼った所で、思いは消化されない様子。

ということで、結論。
人の不幸は蜜の味と思うことは、悪ではない。
しかし、その感覚を持つということは、自分の中に満たされない思いがあるという
こと。
人の幸福を素直に喜べ、不幸を悲しめる人間になりたかったら、まず自分の満たされ
ていない心を満たすこと。