言葉に敏感になる

ブログのテーマでもある対話。
以前は会話と対話の差に見分けが付かなかったり、嫌な気分になる言葉を
言われても深く考えなかったりと、言葉との交わりに疎かった。
それが、どうも違和感を抱えたままにしておけなくて、一生懸命考えるというスタイル
を身につけてから、言葉の種類について細かく感じ取れるようになった。

人は、実は口にして良い言葉とそうではない言葉がある。

単語がダメというのじゃなく、誰のためにどんな想いで綴る言葉かということが重要。
他者の領域に土足で踏み込み、好き勝手に荒らした後、自慢げに立ち去る様は
見ていても、被っても気分が悪い。

なんか踏み込むとかいうと、ものすっごくひどいことをするように感じられるかも
しれないが、気をつけていないと自分もやってしまう取る足らない小さな事。

例えば

「はやく子供作った方がいいんじゃない?」とか「働かないなんてオカシイよね」など。
言っている本人は自分の意見を述べている感覚しかないけど、聞かされている方は
「子供を作らないと欠陥があるって思われるよ」とか「アンタは働いていないからダメ
人間だ」と捉えてしまう。
つまり言葉の表面には現れていない発言者の押しつけが、聞き手の心的領域を
侵犯している。

他にも
「お金があるから海外旅行いけていいわね。」とか「太らなくて便利そう。」など。
一見するとなんの変哲もない言葉だけど、海外旅行に行けることが当人にとって
どれだけいいことなのか分からない内から、他者がいいことにしてしまっていたり
太りたいのに太れないと悩んでいるかもしれない相手に、他者が便利という
判断を下してしまったり。これって、発言者が相手の領域の善悪を勝手に決めて
かかっているとても失礼な行為。

~人には事情があるのですよ~
誰もが一度耳にしたことがある言葉なのに、事情を考慮しないで、配慮のない口の
聞き方をする人全てが、他者の領域に踏み込んでいるのだ。

こう考えると意識している以上に言葉は選んで発しないと、傲慢な人間に
成り下がってしまう。なんだか大変そう・・・。

ただ考えてみてほしい。
自分の心に残る言葉は、口数の多い人間が領域侵犯しまくって吐いた毒ではない
でしょう?
自分の心に寄り添うやさしい気遣いを乗せた言葉こそが、自分をほんわかと
幸せにしてくれる。

友達がたくさんいるから・口数が多いから、とついつい目や耳で分かりやすい指標を
いいことのように勘違いしてしまいがちですが、
本当はひっそりとたたずんでいながらも観察や慈愛の上に立つ人間の言葉こそが
人の心を幸せにし、勇気を与えてくれるのだと、私は思います。