震災のときに感じた違和感の正体

地震にあったときの知人の反応
という記事で取り上げたことがある、一方的な興味(心配)について、もう一回
考えようと思います。

福島県いわき市の観光協会の人の話がヒントになりました。


震災の後を観光に来る人がいる。
人が亡くなった場所を見たいという人がいて、閉口した。
がれきを持ってピース写真を撮る人もいて、胸が痛んだ。
その一方、震災を風化させないために、自分の目に焼き付けようと遠路はるばる
やってきて、地元のおみやげを沢山買ってくれる人もいた。

同じ被災地観光なのに、前者は被災地の人の心を傷つけ、後者は寄り添う。
その違いはなんなのだろう?

私は目線だと思います。

前者は被災地の人の心を無視し、我が道を通している。
全く以て、人の心などお構いなし。
自分の行動は自分の視点と価値基準だけで決める。
まぁ言ってみれば1歳児レベルの精神成長。
1歳児なら、現地の人が傷つこうとも、自分の見たいものは見ます。

後者は被災地の人の心を想像し、寄り添い、出来る範囲で貢献している。
被災地の人の心の痛みと、復興に向けての活力の必要性を十分把握している。
これが大人。

観光協会の人の話にはこんなことも載ってました。
「隣の家が火事になって、仲の良い人が死亡したから、現地を見に行きたい」
といわれたとして、素直に案内できるだろうか?と。

私は、「見に行きたい」ではなく、「線香を上げたい」とか「花を手向けたい」と言う方が
よいと思う。
直接関係がなくとも、人の野次馬根性に加担したい人などいないのだから。

地震の時、9割の知人は、言葉選びに失敗しました。
受け取った私は、どーんと気持ちが落ちました。
それは、KOMAの心配ではなく、自分の知りたい気持ちを優先したからでしょう。

歳を重ねるほどに、1歳児の精神年齢と、歳相応の精神年齢の差を感じます。
1歳の人と、対等に関係性は結べない。
知人といえども、もうつながりを持つことはムリなのかなぁと感じつつあります。

-言葉選び-
ほんの小さなことなのですけどね。
私には大切なこと。