全てのことは「対話」

狐野 扶実子氏を取り上げている番組(オディッサの階段)を偶然見た。

料理とは「食材との対話」という氏の言葉が番組中何度か出てきた。

そのときは、「ふぅーん」と思っていたけど、一日経った今、全てのことは「対話」ではないかと思う。

氏は食材ひとつひとつのもつ味・状態を丁寧に見極め、食材が一番生きる調理方法を選択します。人間の「こうしたい」という欲より、食材が「こうしてほしい」という言葉に丹念に耳を傾けています。

私は氏と真逆の方法で勉学に努めました。
電気回路を習ったときに、なんぞわからん方程式が出てきて頭の中がクシャーとなり、無理矢理方程式を覚えるという愚行をしたのです。
そのとき、私と電気回路にはなんの対話もありませんでした。
私も電子の気持ちになればよかった。どうやったら電子が素直に流れるのかを考えれば理屈が分かったかも知れません。

文字を書くとき、紙を折るとき、キーボードを触るとき、掃除をするとき、私たちが見ているのは、「結果」です。
ペンがどう流れたいか、紙がどう折って欲しがっているか、キーボードはどう扱われたがっているのか、どこに気を遣って掃除して欲しがっているのか、なんて気にも留めません。
生命をもたない無機物は、意志を持っていないと我々は理解しています。
でも本当にそうなのでしょうか?

大工さんは木目に沿ってかんなを削ります。
プロゴルファーは芝目に沿ってパットを振ります。
プロの料理人は食物の繊維に沿って切るのか、繊維を横断して切るのか気にします。

相手がたとえ無機物であっても、その物体が出来るまで・そこに存在するまでに長い長いストーリがあり、その結果生まれた方向性があります。
その方向性に目を向ける、即ち対話するときに、一番良い方法が見えてくるのだと思います。

同じ場に立っている二人の人間。対話する力が違うと、見える世界が違います。
その二人が同じ結果を求めて動いたとき、どちらが美しく省エネで無理のない経路を取ることが出来るでしょう。
私たちが見ている世界は狭いのです。
その世界を広げてみたいなら、分からなくても良いから対話の姿勢を取ることだと思います。
「対話したいよ」とこちらがアプローチすれば、きっと相手は応えてくれます。

私の雑さの根源は対話する力のなさです。
つくづく自分は横暴に生きてきたのだと、反省することしきりです。