「みっともない」で埋め尽くされてた人生

かすかな記憶を辿っていくと、小さい頃よく「みっともない」と言われたことがある。
例えば、顔に産毛が生えていてそれを剃らないと女子としてみっともないとか。
脱衣所に不注意で下着を置き忘れたまま風呂に入ろうとすると、ちゃんと周りを見てないからみっともないとか。

「みっともない」という言葉を耳にする度に、自分がすんげぇ生きてちゃいけないくだらない・みずぼらしい存在だと思った。

意外と「みっともない」は心を破壊する力を秘めている。

この「みっともない」はおばあちゃんの口癖だったのかも、と今になれば思う。
母の母、私の祖母は体面を異常なまでに気にするタイプだった。
家が貧乏でも母をお嬢様学校にいれて、結婚のために箔をつけようとしたり、見栄を張ったり、すべてが金ピカピンのはりぼてみたいな生き方を選択する人だった。
私はそんな祖母を心から大好きと思うより、なんだか偉そうな立派そうなふりをする人だと思った。
そんな祖母だから、周りから「みっともない」と思われるのが大嫌い。常日頃母に「みっともないことをするな」と命令していたのだと思う。
それが無意識に子育てで繰り返されて、母が思う「みっともない」を私に禁じた。

子供なのだから、なにが正しいか、振る舞いとして美しいかなんぞ分かるはずもない。
もし、行動を正すのなら、「みっともない」ではなく「こうするとエレガントよ」でもよかったはず。
けど「みっともない」ことをした私を許せなかったのだろう。「みっともない」ことをすると常に批難と対象になった。

その攻撃を避けるために何事も初めての小さな私は知っている範疇・分かっている領域で生活をしようとする。
外の世界に出て行けば、そこには分からない世界が存在し、母のジャッジで「みっともない」が繰り返されるのは、とてもとても苦しいから。

あの母の行動は外に向けて広がる私の好奇心を深くもいだ。
自由に羽ばたくより、知っている世界で生きなさい・・・と。
私が未だに慎重なのは「みっともない」が生み出した弊害なのだと思う。