人間力が試されるとき

誰でも相手に声を掛けにくいなぁ~というシチュエーションに遭遇したことはあるだろう。
例えば早世した人のお葬式に出席して家族に挨拶をしたとき、自分の欠点を自虐的にネタ披露する人に返答しなくてはならないとき。
そんなとき、我々は黙って通り過ぎよう、取り繕おうとする。

それはそれで間違いじゃないけど、なんとなく自分というものが弱く薄い気がする。

我々は自分の意志ではなく、神のはからいによってこの世にいる。
きっと一人一人課された使命みたいなもんがあるのだと思う。
その使命を達成するもしないも、全ては心がけ次第。
では、今この瞬間私はなんの働きもせずに、場を見過ごしていいのだろうか?

なにも必ず声をかけろといっているわけじゃない。
場合によってはそっとしておいた方が相手のためということは多々ある。
問題は、それを自らが選択してそっとしておいたのか、なにもできなくて結果そぅなったのかということ。

確かに難しい場面で言葉を紡ぎ足すことは、労が要る。
特に自分の見方から抜けられない人にとっては、至難の業だろう。
せいぜい自分に置き換えて考えるが関の山。
しかし、実際一人一人が心に描く世界は違う。
その違いに敏感になって、その上で何を言うかを考えなければならない。
我々は考えることを止めてはならない。

我々は常に神の前で「己はどぅしようとしているのか?」を問われている。
その問いに背を向けることは、即ち我を捨てることでもある。
声を掛けるのが難しい場面ほど、逃げたいけど逃げちゃだめなんだと私は思う。
かなり苦しいけどね。