今日の朝ドラで、戦地から帰ってきた夫が大きく変化した状況になじめず、疎外感を味わうシーンが印象的でした。
さて、自分を受け入れてくれる場所、すなわち居場所は、探せばどこかにあるのか?はたまたそうではないのか?
ちょっと考えてみたいと思います。
環境を変えたら居場所が見つかったというケース
幼少の頃から大変ふくよかだった、とある女性。
日本ではなじみのないビックサイズに、どこへいっても、遠巻きに指を指されるだけで居場所がない。
そこで米国に渡ることを決意。
米国は人種のるつぼというだけあって、だれも体型のことなど言ってこない。むしろその体型を賞賛する声さえある。
賞賛に気分を良くした女性は、もっと目立ちたいと見た目に懲り、あっという間にその地域の有名人に。
彼女はいつも笑顔を絶やさず、仲間と楽しく暮らしたのでした。
環境を変えても変化しなかったというケース
私立お嬢様大学を出た彼女は、就職でつまづき、正社員になれなかった。
そこで派遣社員として、大手企業で働き始める。
さすが大手というだけあって、若い男性社員も多い。
結婚したかった彼女は、男性社員にこびを売り、それが女性社員のひんしゅくを買い、契約期間を更新することなく、終了。
次の派遣先も、また大手企業。
今度こそは、と意気込み、まずは女性との繋がりを作ろうと、ランチ友を作る。
ランチ友は既婚。どうやって結婚したのかを聞き出すと、学生時代からのおつきあいだとか。
「旦那さんの友人を紹介して!」とせがむも、「どんな人がいいの?」という質問に、たくさんの条件を提示。
苦笑いを浮かべるランチ友は「そんな人はいないか、結婚ずみだよ」と諭すも、一定の生活水準を諦められない彼女は、ゴリ推しのお願い。もちろん、紹介など出来るはずもない。
そうこうする内に、ランチ友は持ち前のスキルの高さを買われ派遣社員から正社員に昇格。
部署も移動に。
ランチ友を失った彼女は、また一人っきりになった。
居場所は探したら見つかるのか?
派遣社員の女性は、マッチングするところが見つかれば、居場所を確保できるのだろうか?
それはないだろう。
彼女を孤立させていたのは、身勝手な考え。
反省することなく、ありのままの自分を受け入れてくれるワンダーランドがあると突き進む知性のなさ。
上手くいかなかったら、それはなぜなのか?考える。
そこで立ち止まらないから、ずっと変わらない。
環境が変わっても、「なぜ」の答えが見つからなければ、同じ状況に舞い戻る。
居場所とはどう扱うものか?
居場所、つまり「場」というのは、物理的にそこにあるのではなく、人々が作り出す雰囲気である。
人々が作り出すということは、一人一人がどういう心で居るか、ということが非常に強い要素として働く。
映画にもなった「ペイフォワード」。良き行いをすると、それが伝播するという真理。
そのことを胸に、自分が”相手を受け入れる”温かい心で接すると、それが拡がって、ぐるっと回って自分にも返ってくる。
自分で作ったもので、最後自分も包まれる。
だとしたら、居場所は探すのではなく、自分から作るもの。
人に受け入れられることを望むのではなく、人を受け入れること。
ACはいきなり人を受け入れるなど、ハードルが高くて出来ないと心を閉じるかも知れない。
だから、無理にとは言わない。頭の片隅に、自分のワンダーランドはない。自分で作らねばと留めといてさえいれば。