婚活は人生の中間テストみたいなもの

婚活で苦戦している人々を見て、テストで結果の出なかった学生時代を思い出した。
婚活も所詮他人からの評定。すなわちテスト。出世や社会貢献は期末テストに譲って、人生のピークを迎える中間テストについて、勉強と比べながら考えてみたい。

結果は実情を表しているという厳しさ

勉強は一人で出来ても、結婚は一人じゃ出来ない。だから全くの別物という人がいる。
私はそうは思わない。

勉強だろうと、結婚だろうと、そこには「求める」対象がいて、その対象に沿った答えをはじき出せれば合格、そうでなければ不合格となる。そういう意味では一緒だと思うのだ。

勉強は知識を試されるのに対して、婚活は見た目・人柄・頭の回転の良さ・客観性が試される。
試される分野は、勉強より婚活の方が範囲は広いが、値が高ければ高いほど良い結果に結びつくという意味では一緒。

実情の値が低ければ、希望通りの結果は得られない。

苦しむのはなぜか?

「勉強はしてなければ、結果が悪い」。そのことで悩む人はいない。むしろ悩むとすれば、「勉強してたけど、結果が悪い」である。
つまり出題者の「求める」対象を読み違えてしまったのが致命傷。

対して婚活はやってなくても、「自然に出会いがない」と嘆き、相談所に登録しては「よいと思った人には思われず、遠慮したいという人に寄ってこられる」とこぼす。
「求める」対象の読み違いどころか、ひじょ~に身勝手である。

有名な問題集「傾向と対策」のように、物事の「傾向」を知り、「対策」を練れば無駄に走り回ることはない。それなのにこと結婚に関しては、「縁」とか「運」とか対策と真逆の方向へと話が飛んでいく。

結果がついてこないのも、納得できる。

婚活で苦しむのは【無策】だから。
「贅沢は言わないから、ふつーの人でいいの」という思考ストップのおふざけは即刻止めた方がいい。

人生をちゃんと振り返る

妙齢になるまで、「人生テスト」を受けたことがないから、「私は大丈夫」という妙な自信が芽生える。

その自信が邪魔をして、「傾向」の分析を阻む。分析なんてしなくても、なんとかなるから~という過信を生む。

結果、不釣り合いなほどの相手を求めて相談所を渡り歩くこととなり、時間と費用が無駄になる。

だから人生の棚卸しをする気持ちで、「今の自分ってどのくらいに位置するのかしら?」と分析することが先なんじゃないかと思う。
人生の中間テストに対してちゃんと「傾向と対策」しなくちゃね。